トランバンの騎士
月光を背景に下卑た笑みを浮かべながら近づき来るバンダナの男に、佳乃は立ち上がることも忘れて後ずさると――蹄の音が聞こえた。
最悪だ。
どうやら、山賊か盗賊かは知らないが、男の仲間がまだ増えるらしい。これではますます逃げられない。
さて、どうしたものか。
暴れて殴られるのも嫌だが、黙って好きにされるのはもっと嫌だ。
一番理想的な選択肢は逃げ出すことだが、残念ながら佳乃の体はピクリとも動いてくれない。完全に、恐怖から固まってしまっていた。
冷や汗が背筋を伝うのが解った――が、男達の反応は、佳乃とは違う。
「やっべ! おい、ずらかるぞっ!」
蹄の音にいち早く反応した男は、そのまま馬の向きを変えて仲間たちの消えていった暗闇へと飛び込む。置いていかれる形となったバンダナの男は、佳乃と仲間の消えた暗闇を見比べて逡巡し、近づき来る足音に仲間に続くことを決めた。
すぐに自分の馬に飛び乗ろうと手綱に手を伸ばし――届かなかった。
佳乃が足音の方向へ顔を向けるよりも早く。
バンダナの男が手綱を掴むより早く。
足音の主が馬とバンダナの男の間に割って入った。
突然の乱入者に驚き、バンダナの男の馬は主人を蹴飛ばす。
蹴飛ばされた男はすぐに体制を整えるが、乱入者の行動の方が早かった。
馬上の男は佳乃とバンダナの男の間に立ちはだかると、髪と同じく銀色に輝く刃を振り下ろす。
佳乃が瞬き、事態を理解する前に、全ては終わった。
乱入者の背に庇われる形となり、馬の影に隠れて何が起こったのかは見ることができなかったが。金属と金属がぶつかる大きな音がした後、バンダナの男は地面へと倒れた。たぶん、死んではいない。胸当ては大きく凹んでいたが、外傷は見えない。血も出てはいない。
なにより、佳乃の持つ常識として、たとえ正当防衛とはいえ人を殺すなどということはあってはならない。
だから、きっと生きてはいるはずだ、と自分を納得させながら、佳乃は馬上の男を見上げ、すぐに視線を落とした。
男が馬の背から降りたからだ。
風を含んでふわりと広がる男の髪は、月光を受けて銀色に輝いている。
先ほどの刃と同じ輝きの――と、そこまで考えて佳乃は眉をひそめる。
馬上から降り、ロープを馬の背から下ろし倒れた男を捕縛して――ということは、やはりバンダナの男は生きているのだ――いる銀髪の男をしげしげと観察した。
背は高い。体格も良い。髪は光の加減か銀髪に見えるが、普通に考えれば白髪といったところか。ということは、足取りはしっかりしているが、男はそれなりの年寄り……と思うにはやはり無理がある。バンダナの男の手を縛る動きに迷いはなく、力強い。背を向けられているため年齢までは判らないが、成人男性であろう。老人とは思えない。
が、そんなことよりもなによりも――佳乃には気になることがある。
見たこともない銀色の髪も、馬にのって現れたことも、些末なことと片付けられるほどの異物が。
銀髪の男の腰には、先ほどバンダナの男に振り下ろされた銀色に輝く『剣』がぶらさがっていた。
異物は剣だけではない。
銀髪の男の全身を包む漆黒の鎧も、異物といえば異物だ。
少なくとも、佳乃のもつ常識からしてみれば、こんな夜中に馬にのって鎧姿に剣を下げて闊歩する習慣は、日本にはない。
山賊か盗賊としか思えないバンダナの男と、戦士――馬にのって現れたのだから、騎士か?――のような風体の銀髪の男を佳乃が呆然と見守っていると、新たな足音が聞こえてきた。
もう、相手が騎士であろうと、盗賊であろうと、驚きはしまい。
そう腹を決め、佳乃が音のする方向へと顔を向けると、馬にのった騎士風の男が2人現れた。
「団長!」
まだ若いと判る声に銀髪の男が答える。
「東へ1人逃げた。追え」
「はっ!」
団長と呼ばれた男に答えると、2人の騎士は東へ――男達の逃げていった暗闇へと馬を走らせた。銀髪の男は二人の姿を見送ると、気絶している男のロープを確認してから、驚いて興奮したままの馬を宥め始めた。首筋を撫でられるたびに落ち着きを取り戻す馬につられ、佳乃も落ち着きを取り戻す。
とりあえずの危機は去った。
そう、思えた。
少なくとも、銀髪の男は最初の男たちよりはマトモそうに見える。腰に剣を下げ、鎧を着ているという意味では、まったくもって『マトモ』とは言えなかったが。
まずは立ち上がろう、と佳乃は身じろぐ。と、その微かな物音に銀髪の男は即座に反応し、腰の剣へと手を伸ばし佳乃の方を見た。
「ひっ!」
決して穏やかとは言えない眼光に射すくめられ、佳乃はその場に再び座り込む。
ようやく引く兆しを見せた恐怖が、再び佳乃を包んだ。腰に手をあてた銀髪の男から逃げようともがき、足を動かすが、自分の足のはずなのに、佳乃の足はピクリとも動いてはくれなかった。これでは逃げることはおろか、身を守ることもできない。
身を硬くしながらも逃げ出すことなく震える佳乃に、銀髪の男は腰へと伸ばした手を下ろした。
「あっ」
一歩、自分の方へと踏み出された男の足に、佳乃は逃げ出そうと思うのだが、足はやっぱり動いてくれない。
なんとかならないものか、と諦め悪く腹に力を込めてみるが、僅かに肩が揺れる程度で、足は動かなかった。
そうこうしている間に、銀髪の男は佳乃の目の前へと到着する。
「やっ!」
伸ばされた男の手から逃れるように身をそらす。
硬く目を閉じ、歯を食いしばると、頭上から男のため息が聞こえた。
「……安心しろ、私は何もしない」
鋭い眼光とは裏腹な穏やかな声音と、遠のく手の気配に、佳乃は怖々と目を開く。
男の手は降ろされていたが、顔は近い。怯える自分に目線を合わせてくれた、と言う方が正しいのだろうか。男は膝を着いて腰を落としている。先ほどは佳乃を鋭く射すくめた青い眼光も影を潜め、今は困ったように揺れていた。
「賊は捕らえた。逃げた者も、仲間が追っている」
佳乃が理解するのを待つように、男はゆっくりと状況を説明する。
その間も、微動だにしない。
少しでも自分が動けば、佳乃をさらに怯えさせることになるとわかっていた。
「私は、領主ボルガノ様より閃光騎士団を預かるイグラシオと言う者だ。……あなたは?」
ゆっくりとした自分の説明に、落ち着きを取り戻しつつあると判る佳乃に、銀髪の男は名乗る。
先ほどの男達とは違い、いっそ紳士的とも言って良いイグラシオの態度に、佳乃はようやく肩の力を抜いた。
「わ、わた……しは、わたしは……佳乃、です」
多少の落ち着きを取り戻しはしたが、身体はまだ言うことを聞いてくれない。
うまく回らない舌に我ながら情けなくなったが、イグラシオは急かすことなく佳乃の応えを待ってくれている。それに答えようと、佳乃は懸命に口を開き……一度は遠ざかった足音が戻ってくる音を聞きつけ、びくりっと身をすくませた。
「団長!」
歳若い声に怯え、再び身を硬くした佳乃に、イグラシオはため息をもらす。
彼が悪いわけではないが、タイミングが悪かったのは確かだ。ゆっくりと落ち着きを取り戻しつつあった佳乃は、再び怯え始めている。