トランバンの騎士
「賊を森の外れまで追いましたが、見失いました。念のため、ヒックスが――」
と、少年騎士はそこまで報告をしてからようやく気がつく。
自分が報告をしている相手の目の前に、なにやら怯えている娘がいる、と。
そして、状況から察するに、自分達が追っていた賊の被害者であろうとも。
「これは、失礼しました」
女性の姿に気づかず、失礼な態度をとってしまった、と詫びる少年騎士の声が聞こえたが、佳乃にはほとんど意味がわからなかった。
極度の緊張と恐怖。
ようやく落ち着けると思った所にきた少年騎士の再登場に、佳乃の緊張の糸は切れた。
「自分は、閃光騎士団副団長のエンドリューと申します。お嬢さん、我々が来たからには……」
なにやら畏まった口調で語る少年騎士であったが、その言葉の意味はほとんど佳乃の頭の中を通り過ぎていく。
佳乃に、すでに物事を理解するための余裕はない。
ぼんやりと聞き流している様子の佳乃に、イグラシオは小さくため息をもらした。
「……報告はネノフの家で聞く。この女性は佳乃という名だそうだ。今のところは……これ以上聞けそうにない」
隣で立ち上がるイグラシオを目で追い、佳乃は瞬く。
と、イグラシオは佳乃に手を差し出した。
「立てるか?」
立てるか? と聞いても、イグラシオは佳乃の手を取りはしない。自分から何か行動を起せば、佳乃の混乱に拍車をかけるだけだ、とイグラシオは判っていた。
佳乃はぼんやりと差し出されたイグラシオの手を見つめていたが、やがてゆっくりと言葉を理解し、手を伸ばす。
怖々と、一瞬だけイグラシオの手に触れて『確かめた』。
目の前にあるものが、本物か否か。
銀髪の男に、鎧と剣。馬にのった騎士に、盗賊と思われる男達。
どう考えても夢を見ているとしか思えない状況に、佳乃は現実逃避を計りたかったのだが――イグラシオの手の感触に、これが『本物』だと思い知らされた。
およそ理解できない状況が、自分の身の周りを包んでいる。
そう理解できた。
が、不思議なことに……それら全てから生まれる不安も恐怖も、イグラシオに触れた指先から潮が引くように消えていく。
そっと手を重ねると、男性特有の自分よりも高い体温が佳乃の指先に伝わる。
その熱が、ほんのりと佳乃の落ち着きを取り戻した。
ほっと自然にもれた佳乃のため息に、イグラシオは再び佳乃が落ち着きを取り戻し始めたと知る。試しに重ねられただけの手を握ってみたが、佳乃が驚いて手を引っ込めることはなかった。
そっと手を引き立ち上がらせると、一瞬だけ佳乃はよろけたが、すぐに自力でバランスをとり、立つ。
「……どこの村の者かは知らないが、夜の女性の一人歩きは危ない。明日にでも、あなたの村へと私が送って行こう。今夜のところは、近くの村に住む私の知人の家へ泊まって頂きたい。……それでいいだろうか?」
村? 町ではないのか? とも思ったが、佳乃は口を閉ざす。
知っている道にさえ出られれば自力で家へ帰れるが、今夜はもう何も考えたくなかった。
ただ、先ほどの男とは違い紳士的なイグラシオの言葉を信じよう、とだけ思う。
他は、何も考えたくない。
佳乃は声にだして答えようとしたが、舌がうまく回らない。
仕方がないので、小さな子どものようにこくりと頷いて、イグラシオに了解の意を伝えた。
ネノフと呼ばれる初老の女性にティーカップを手渡され、佳乃は小さく礼を言ってから、それを口に運ぶ。
ほんのりと香る匂いに覚えはなかったが、ハーブティーか何かだろう。燭台の灯りでは光量が足りず、はっきりとした色まではわからないが、少なくとも紅茶ではない。喉を通り胃へと落ちる温かい液体に、佳乃はホッとため息をもらした。
不思議な味がする。
が、嫌いな味ではない。
今の佳乃にとって胃の中に物を入れるという行為は、心を落ち着けるのに丁度良い役割を果たしてくれていた。
というよりも、もしかしたら老女は、それを狙ってこのお茶を煎れてくれたのかもしれない。カップ越しに老女を盗み見ると、佳乃と目のあった老女は柔らかく微笑んだ――と、僅かに床が軋む音がする。老女と佳乃がつられたように音のした方向へと顔を向けると、音をたてないようにと静かにドアを開けてイグラシオが奥から戻ってきた。
「……少しは落ち着いたか?」
「あ、はい……」
ドアを閉め、部屋に入ってきたイグラシオに、老女はティーカップをテーブルに置く。出されたハーブティーを口に運ぶイグラシオの動きを何気なく眺めてから、佳乃はこっそりと室内を観察した。
『ネノフの家』とイグラシオは言っていたが、どうも個人の家とは考え難い。自分とイグラシオの座っている椅子の数は老女が三世帯で住んでいるとしても数が多かったし、ハーブティーの置かれた年代を感じさせる木製のテーブルも大きく、数も3脚ある。何かの施設だろうか? とも思うが、家の外で見た月明かりに照らされただけの外観からは、いったいなんの施設なのかは判らなかった。というよりも、驚くべきことに盗賊に襲われた森からこのネノフの家に辿り着くまでの間、それなりの距離を歩きはしたが、街灯などは一つもなかった。今佳乃が休んでいる建物と、少し大きな建物が別にもう一棟。それとは逆に小さな建物が一棟。月明かりに照らされた建物の数は計3棟。その3棟から構成される施設の総称として『ネノフの家』とイグラシオは呼んでいるのだろう。建物に入る前の位置関係を思い出してみると、イグラシオが入ってきたのは別棟の方向になる。ということは、先に捕らえた賊とエンドリューと名乗った見張りの少年騎士は別棟にいるのだろう。
イグラシオに答えたように、僅かずつだが落ち着きを取り戻しつつある頭で、佳乃は目の前の男を観察した。
佳乃がこれまでに見たことがないような見事な銀髪は、ろうそくの灯りを浴びて暖かな光を放っている。漆黒の鎧は着用されたままだが、腰に下げられていた剣は、今は壁に立てかけられていた。建物に入って早々、老女に剣を外せと言われたせいでもあるだろうが、元々イグラシオにはこの建物内で帯剣する気は無い気がする。なんとなく、だったが。
見事な銀髪を持ち、鎧に身を固め、馬にのって剣を振るう、まるでファンタジー世界の騎士のような言い回しをする男性。
これが、イグラシオに対する佳乃の感想である。
(なんか、変なことになったなぁ……)
こくり、とハーブティーを喉の奥へと流し込み、佳乃は視線を落とす。
じんわりと腹部に広がる温もりに、まるで夢のような出来事ではあるが、これが夢ではないと実感させられた。
(イグラシオさんっていったっけ? いい人そうだけど、顔が怖い)
ちらり、と一度は落とした視線を目の前の男に戻す。
それなりに整った――むしろ、かなり良い部類であろう――顔をしていたが、最初に力いっぱい凄まれたこともあり、正視するには勇気がいる。
(ってか、あの鎧。良くできてるけど……コスプレ? こんな夜中に?)
しかも、森の中で? と考えて、佳乃は眉をひそめる。
自分は今、極普通に『森の中』と考えた。
自分にとっては、小さな公園のちょっとした『林』であって欲しい、と願った場所に対して。