トランバンの騎士
佳乃は出来上がった酢を少量小皿にとり、味を見ようとして――顔をしかめた。
さすがに、匂いがキツイ。
このまま舐めるのは辛いか、と佳乃は作業台の隅を見る。そこには今夜食べるように避けておいた加工前の野菜が置いてあった。
佳乃はその野菜を手に取り、小さめに切る。その欠片を酢に浸してから、食べてみた。
「……薄い。ホントにコレでいいのかな?」
佳乃が作っている物は、あくまで保存食だ。保存食というものは、漬ければ漬けるほどに味が染み込み、濃く、美味くなるものだ。
だが、自分が今作った物は、『これから味が染み込んでいく』物だとしても、味が薄すぎる気がした。
佳乃は酢の入った小皿を見下ろすと、考える。
ネノフ曰く、だんだん覚えていけばいい。保存食など、味を濃くすればなんとかなるものだ。
とのことだったが。
やはり、不安は不安だ。
佳乃は眉をひそめて考える。
自分一人の味見では不安だ。という事は、別の人間にも味見をさせればいい。となれば、適任者はネノフのはずだが、きっと彼女には断られる。なんでも経験しなさい、と佳乃をわざと放置しているぐらいだ。間違いない。となると、次は実際に出来上がった物を食べる事になる子ども達だが、仮にも連帯責任を取らせようとする相手が自分よりも年少――というよりも、相手は本当に幼児か子どもだ――というのは、いただけない。残る候補は――
「……味見、お願いしてみようかな」
別れ際、僅かに様子のおかしかったイグラシオを思いだし、佳乃は独り言つ。
様子の変わったタイミングを考えると自分が何か失言をしてしまったようだが、そろそろ機嫌も直っているかもしれない。
何より様子も気になるので、これは良い機会だろう。
佳乃は味見係という名の連帯責任者にイグラシオを選び、小皿の上に野菜を一欠けら追加した。
キュウリを一欠けら載せた小皿を持ち、佳乃は裏口から畑へと戻る。ぐるりと辺りを見渡してみたが、土を掘り返しているアルプハの横にイグラシオの大きな体は見えなかった。支柱に支えられた野菜の影に腰を下ろして作業をしているのかもしれない。そうも思い、畝(うね)の間も探してみたが、収穫作業を続ける子ども達はいたが、イグラシオの姿はなかった。
佳乃は小皿を後ろ手に隠し、裏庭を横切る。
先ほどイグラシオは、柄の折れた鍬を持っていた。もしかしたら、まだ納屋で鍬の修理をしているのかもしれない。
ヤギの世話をするエプサイランの横を通り過ぎ、佳乃は家畜小屋に併設された納屋を覗き込む。
薄明るい納屋の真ん中に、ようやく目当ての背中を見つけ出した。
「あ……」
佳乃の接近に気づかない背中に、佳乃は納屋の戸口で足を止める。
だいぶ時間が経ったので、イグラシオの機嫌も直っているだろう。そう思って探していたのだが――その考えは、甘かった。こちらへと向けられている背中からは、相変わらず無言の圧力が発せられている。
戸口に立ったまま佳乃は、しばらくイグラシオの背中を見つめた。
声をかけたいのだが、なんと声をかけたら良いのか解らない。
一番良いのはイグラシオの方が佳乃の存在に気が付いてくれることだが、いつもならば背後に立てばすぐに振り返るイグラシオが、今日は振り返るそぶりを見せない。気が付いていて無視しているのか、気が付いていないのか――後者であってくれることを祈る。
黙々と作業を続けるイグラシオの背中を見つめ、佳乃は思案した。
いつまでも、声がかけづらいと逃げている訳にもいかない。
何か、良いきっかけでもないものだろうか――?
薄明るい納屋の中、道具箱に腰を下ろし、イグラシオは老朽化した鍬の柄を外す。
折れたのは木製の柄の部分だけだ。これならば、新しい柄をはめればまだまだ使える。新しい柄に丁度良い長さの棒を納屋の中から選び出し、はめ込むべき窪みと見比べた。ほんの少し、新しい柄が太い。が、少し削れば問題のない差だ。イグラシオは道具箱から取り出した小刀で黙々と新たな柄の先を削り始めた。
『領主って、馬鹿?』
不意に、先ほど佳乃の口から洩れた言葉を思い出す。
彼女の言動に、悪意はない。ただ、言って良い事と悪い事の線引きが曖昧すぎた。
おそらく、彼女は理解していない。騎士である自分を目の前にして、領主を『馬鹿』と称するその意味を。
自分に対して言うのならば良い。問題はあるが、イグラシオは佳乃に悪意がないと解っている。が、これがエンドリューや別の騎士であったのならば――個人の胸に留めておく事はなかっただろう。佳乃はその日の内にトランバンへと連行され、良くて投獄。悪くて見せしめに処刑されていただろう。
トランバンは自治領で、王はいないが領主がいる。
そして、その領主は――
一瞬だけ浮かんだ考えを振り払うように、イグラシオは軽く頭を振った。
今、自分は刃物を使った作業をしている。
他所事を考えていては、危険だ。
そうは判っているのだが――
『領民がいなくなったら、自分もご飯食べられなくなるって、考えなくても判ると思うんだけど……?』
首を傾げながら呟かれた佳乃の言葉が、頭から離れてくれない。
良いか、悪いか。
口から出して良い言葉か、飲み込むべき言葉かは、この際関係がない。
佳乃の言わんとしている意味は解る。
市民がそれに対して不満を抱いている事も知っている。
が、肝心の領主には、それがまったく理解されていない。
否。
理解していないのではない。理解する必要があるとも思っていないのだ。
騎士として、自分が仕える主は。
「つぅ!」
逸れた思考に、集中の途切れた手元が狂う。
削る柄を押さえていた人差し指を、小刀が浅く切り開いた。間をあけずに赤く染み出す血に、イグラシオは眉をひそめる。
今はまだ個々の小さな『不満』で収まってはいるが、それが成長すると、やがては大規模な暴動へと成長する。
そして暴動となった時、血を流すのは自分ではない。個々の市民――例えば、佳乃や孤児院の子ども達――だ。
騎士である自分は剣を振るい、その血を流させる――暴動の鎮圧を図る――役目を持つ。
それが領主を守る騎士の務めなのだから。
市民を蔑ろにし、自らの首を絞める領主のために、いつか自分は家族を斬るのかもしれない。
自分が誰に仕えているのか。それを知っているネノフの元にいるので、子ども達が矢面に立つことはないとは思うが。
暗く沈む思考に、イグラシオは眉間に皺を寄せ――不意に右頬へと触れた、小さな温もりに瞬く。
「!?」
予期せぬ何者かの接近に、イグラシオは驚いて首を廻らせる。と、丁度顔の真後ろに目を丸く見開いた赤ん坊の顔があった。
「……なんだ?」
予期せぬ接近と接触ではあったが、振り返った先にあった顔は良く知っている。現在孤児院で最年少を誇るミューだ。その姿を認めれば、頬に触れた小さな温もりの正体もわかる。振り返ったイグラシオの鼻をぺしぺしと叩いている、ミューの手だ。
「ミュー? っとと」
姿を確認するや否や、自分の右肩へと体重を移動させるミューを、落とさないようにイグラシオは反射的にミューの背中を押さえて捕まえる。