トランバンの騎士
ミューの安全を確保した後、イグラシオはホッとため息を吐くと、眉をひそめて身体ごと振り返った。
どんな理由があったにせよ、自分は刃物を扱っていた。そこに安全の確認もせずに赤ん坊を乗せて寄越すとは、どういうつもりかと問い正そうとして――背後に立っていた娘の表情に、イグラシオは言葉を飲み込む。
「……佳乃」
ほんの一瞬だけ不安気に揺れた黒い瞳に、イグラシオは戸惑う。
佳乃はイグラシオと目が合うと、すぐにその表情を隠した。
「……なんだ? どうした?」
一瞬前までは、相手の手元も確認せずに行動を起すのは危ない、と注意をしようと思っていたのだが。予期せぬ佳乃の表情に気をそがれたイグラシオの口からは、本人でさえも驚くほどに穏やかな声が洩れた。
「えーっと、……その」
他者を拒絶するかのような背中に尻込み、話しかけられなかったはずなのに。いざちょっかいを出してみれば、予想外に優しい声音で答えられた。
それに戸惑い、佳乃は言い淀む。
「ちょっと、何か落ち込んでるみたいだったから? その……話しかけづらいなーって……」
ミューの力を借りました。
そう、散々悩んだ後、佳乃は正直に暴露する。
別段隠しておくような内容でもない。ただ、ひたすらに情けなくはあったが。
自分自身の情けない行動を恥じ、佳乃がこっそりと肩を落とすと、イグラシオはそっと目を伏せた。
「別に、落ち込んでなどいない」
「そうですか? ならいいんだけど、なんか変だなーって」
僅かにトーンの低くなったイグラシオの声に、佳乃は視線をそらす。
何かある。それも、先ほどの会話から察するに、自分が何か失言をしたのだ。
それは解ったが、言葉を濁すイグラシオに、佳乃にはそれを追求する事を諦める。
イグラシオはネノフと同じだ。自分が間違いを犯せば、言い難い事でもちゃんと言葉にしてくれる人物だと信頼している。
そのイグラシオが、何も言わないのだ。
佳乃が取るべき行動は、それを受け入れることだろう。――そう、自分を納得させた。
黙ったままのイグラシオに、佳乃もつられて口を閉ざす。
そろそろ機嫌は直っているだろうか? そう確認したいがために、『味見をさせよう』などと無理矢理な理由を作っては来たが、とてもではないがそんな軽口が許されるような雰囲気ではなかった。
椅子代わりに座っていた道具箱から腰を上げ、ミューを片手で抱いたまま土間に放り出された柄を拾うイグラシオを、佳乃は黙って見つめる。
「……おまえのせいではない」
しばらくイグラシオの背中を見つめていると、不意にそう言葉を足された。
その言葉に、佳乃は瞬く。
どうやら、自分の子どもじみた行動から分析され、何を考えての行動であったのかに気が付いたらしい。
佳乃からはイグラシオが何を考え、何に悩んでいるのかを推し量ることはできない。が、イグラシオからは佳乃が何を考え、どう行動を取ったのかは解るらしい。それが嬉しいやら、気恥ずかしいやら――佳乃はほんのりと頬を染めた。
「それよりも、どうした?」
「え?」
「……話しかけづらかった、という事は、私に何か用があったのだろう?」
「あ、うん。ちょっと……」
イグラシオの様子を探るため、無理矢理作った用事だという自覚はある。が、あまりの幼稚な自分の行動に、なんだかすっかり見透かされている身としては、逆に言い辛い。――こんな馬鹿馬鹿しい用件、口に出した途端に今度こそ逆鱗に触れるのではないか。そうも思って。
「えーっと……」
佳乃の反応に、眉をひそめながらもイグラシオは急かさない。
始めた逢った日からそうだ。
イグラシオは佳乃を急かさない。単純思考で失敗の多い佳乃からは、それがありがたくも恐ろしい。誤魔化した方が良いか? と後で後悔するような思いつきも、今のように猶予を与えられてしまうと、逆に披露せねばいけない気分になってしまう。それを解ってやっているのだとしたら、目の前の騎士は相当性質が悪い。とはいえ、天然でやってのけているのだとしても、その性質の悪さは変わらない。
銀色の髪を微かに揺らし、首を傾げて答えを待つイグラシオに、佳乃は腹を決めた。
無言のままにイグラシオの隣へと移動すると、小皿に載せたキュウリをつまむ。
「はい、あ〜ん」
「?」
なんと言ったら良い物か。ほかに言葉が見つからず、佳乃は子どもにするのと同じように口を開けて『あ〜ん』とイグラシオに『促した』。
それを受けて、一瞬だけ瞬いたイグラシオは案外可愛い――等と思う暇はなく、やっている佳乃は死にたい程恥ずかしかった。だが一度始めてしまった手前、もう後には引けない。
「あーん」
瞬くイグラシオに気づかない振りをして、佳乃は再度『促す』。
どこか困ったように上目遣いに自分を見上げながら口を開けろと促す佳乃に、イグラシオは眉をひそめながらも口を開く。そこに佳乃は作ったばかりのピクルスを放り込んだ。次にイグラシオの口から洩れ聞こえるキュウリを咀嚼する音、それを飲み込む喉仏の動きを待ってから、佳乃は口を開いた。
「……いかがでしょう?」
「薄いな。まったく味が滲みていない」
予想通りの答えに、佳乃は唇を尖らせる。
作ったばかりだ。味が滲みているわけがない。
「それはそうです。漬けたばっかで、これから美味しくなる予定なんですから」
この言葉に、さすがのイグラシオも眉をひそめた。
毒を盛ったわけではないが、美味くないと承知で他人の口に食べ物を入れるとは、と。
それも、『話しかけづらい』と思っている人物をわざわざ選んで。
「味に自信がなかったから、取り返しのない味になる前に、誰かに味を見て欲しかったんです」
ほんのりと恥ずかしそうに言い訳を口にする佳乃に、イグラシオは目を細める。
一応、納得はいった。
ネノフと佳乃の性格は知っている。本来ならばネノフに確認をしたいところだが、きっと無駄だと自分の所に来たのだろう、と。
そういう事ならば、味についても何か言った方が良いのだろうか。そう考えて、イグラシオは飲み込んだばかりの漬物の味を思いだす。
「……まあ、喰えない物にはならないだろう」
保存食とは得てして保存している間に味が濃くなる物だ。自分が食べさせられた物がこれから漬かっていくものならば、問題はない。多少、ネノフの味とは違うかもしれないが、それも佳乃が作ったという一種の個性だ。
当たり障りのない答えを返したつもりではあったが、イグラシオの答えに佳乃は複雑そうな表情を浮かべた。
「それは……」
誉められているのか、貶されているのか。これで大丈夫と太鼓判を押されたのか、本当の意味で最悪でも食べられない物にはならないと言われているのか解らない。
曖昧な物言いをしたイグラシオに、佳乃はやっぱり何か怒っているのか? と顔を覗き込んでは見るのだが、やはり真意は判らなかった。
というよりも、言葉通りに受け取るのが、彼の真意なのだろう。
つまり、佳乃の作ったピクルスは、最悪でも『食べられる』物ということになる。
イグラシオからミューを返還され、佳乃はミューを抱く。