トランバンの騎士
再び道具箱に座るイグラシオの隣に佳乃が座ると、イグラシオは作業を再開した。手馴れた仕草で柄を削るイグラシオを佳乃が見つめていると、不意にイグラシオが口を開く。
「……すまないな」
「? 何がですか?」
一瞬、何について言われているのかが判らず、佳乃は瞬いた。が、続いたイグラシオの言葉にさらに瞬く。
「おまえの身元について、だ」
「あ」
慣れ始めた生活に、時々忘れそうになることがあるが、自分は孤児院に預けられている身だ。
いつかは離れることになるし、そのつもりでもある。
イグラシオに保護された当初、状況が理解できずに混乱していたため、思ったままを口に出したら『恐怖から一時的に記憶が混乱しているのだろう』とイグラシオとネノフに『好意的に』解釈された。そして、佳乃もそれを正そうとはしなかった。自分がもしイグラシオの立場であったなら、いきなり『異世界から来ました』などと話しをされても信じられないと思ったからだ。
その考えは、今でも変わらない。
佳乃自身はネノフとイグラシオを信じている――というよりも、信じるより他にはなかった――が、自分が二人の信頼を得られているのかは自信がなかった。
ゆえに、この世界のどこかに佳乃の帰る家があると思っているイグラシオは、佳乃がそれを探そうとしなくとも、知らない所で探していてくれたのだろう。
そう改めて気が付いた。
「トランバンでも色々調べてみたが、なかなか身元が見つからない。黒髪の娘の捜索願も、どこかの屋敷で盗賊に娘が攫われたとの報告も出ていない」
自分の力不足を悔やむイグラシオに、佳乃は目を伏せる。
自分の身元はこの世界のどこにも見つからない。そんなものは最初から存在しないからだ、と言い出せない自分が腹立たしかった。
この場合、なんと言ったら良いのだろうか。
正直に話す勇気があれば、とうの昔にそうしている。そもそも、言葉は足りなかったかもしれないが、本当のことは最初に話してもいた。では、当たり障りなく焦ってはいないと励ませばいいのか? とも思うが、それはそれで自分の事ながら腹が立つ。イグラシオの徒労が、まったくの無駄なものであると知っているだけに、余計に。
(……あれ?)
――と、真剣に自分の事を調べてくれていたイグラシオに申し訳なく思いながら、佳乃は眉をひそめる。
(わたし、そんなに焦ってない……?)
この世界に来た当初は焦り、一人で森へ出かけ、イグラシオに怪我をさせる事態になってしまったが。
この世界での暮らしは、不自由で不便もあるが、そう悪くもない。
そう思い始めている自分に驚いた。
帰りたいし、自分がここに居てもそれほど役に立つとは思えないが、いざ今すぐに元の世界に帰れたとしたら、自分はきっと毎日子ども達の事を気にする。
そして、そんな自分を、佳乃は嫌いではない。
いつのまにか、子ども達は自分にとっての一部になっていた。
佳乃は未だに当て布の取れないイグラシオの頬を見つめる。
イグラシオに保護された翌日に受けた傷は、そろそろ二月は経つというのに、未だに当て布が取れる様子を見せない。
「私も時間を見つけて探してはいる。必ずおまえの帰る場所を見つけ出すから、もう少し待っていてくれ」
佳乃の沈黙をどう受け止めたのか。そう口にするイグラシオに、佳乃は目を伏せて「はい」とだけ短く答えた。
探す必要はない、とは言えない。それを告げるならば、自分が何者かを説明しなければならない。
今度こそ、頭のおかしい人間だと思われるかもしれない。それではなくとも、ふざけているとも受け取られかねない。見ず知らずの自分に対して、こんなにも親身に世話を焼いてくるイグラシオやネノフならば、あるいは信じてくれるのかもしれなかったが――
佳乃に、真実を告げる勇気はなかった。