トランバンの騎士
【06章】分かたれた鏡
洗いたてのシーツを広げ、風に泳がせる。
ふわりと空気を含んだシーツの皺を簡単に伸ばすと、それを洗濯紐に広げた。最後に両手で叩いてシーツの皺を伸ばし、佳乃は空を見上げる。雲ひとつない晴天――とまでは言わないが、雨雲はひとつも見えない。これならば、洗濯物も早く乾くだろう。
佳乃は背負い紐で背中に括りつけていたミューを、肩越しに振り返る。ミューは微かな寝息を立てて眠っていた。最初のころは寝ているうちはできる限り起さないようにと気を使ったのだが、ミューがそういう性質を持っていたのか、赤ん坊がそういう物なのか、意外に背負ったまま家事をしていてもミューの睡眠を妨げることはない。さすがに足元で子ども達が喧嘩を始めたり、ミューを背負っている事を忘れて佳乃が直角に腰を曲げたりするようなことがあれば起きてしまうが。子ども達もそれを知っているので、各自で頭を働かせて佳乃の手伝いをしてくれていた。
佳乃は洗い桶の中で足踏みを繰り返す双子を見て、その横で洗い終わった洗濯物を力いっぱい絞るビータに視線を移し、それから最後に少し離れた木陰を見つめる。木の幹に隠れるように、小さな茶色い頭が揺れていた。なにやらもぞもぞと肩が動いているのは、苛立ち紛れに下草を抜いているのだろう。
木陰に身を隠したまま下草を引き抜いているイオタに、佳乃は苦笑を浮かべる。
イオタの機嫌は、未だに直ってはいないらしい。
佳乃は苦笑を浮かべながら、新たに手渡された洗濯物を広げる。視線を干したばかりのシーツへと戻すと、その横に新たな洗濯物を並べた。そろそろイオタの機嫌をとってやっても良いが、まずは洗濯を終えてからだ、と苦笑を浮かべたまま。
最近のイオタには、ある意味で佳乃に対する遠慮がなくなった。
以前のようにただ甘えるのではなく、独占欲のようなものを見せるようになった。かと思えば悪戯を仕掛けてきたり、舌を出して『おまえなんか嫌いだ』と意思表示をしたりもする。それらの行動は歳相応の子どもらしく、可愛らしいとは思うのだが――イオタに遠慮がなくなったように、佳乃にも遠慮がなくなった。イオタは佳乃が産んだ子どもではないが、ここに居る間は家族であり、弟でもある。家族という括り方をするのならば『佳乃ママ』と呼ばれる言葉通り、佳乃の子どもといっても強ち間違ってはいない。親は子どもが悪戯をしてくるようならば怒るし、躾けるべき時はちゃんと躾けるものだ。
それに、今回はイオタが全面的に悪い。
佳乃が家事を後回しにしてイオタの機嫌を取るのは、間違った対処だ。
時々ちくちくと突き刺さる視線を無視して、佳乃は洗濯物を干す。
先ほどイオタに悪戯をされ、泣きはじめたミューも今は夢の中だ。イオタの反省を促す意味でも、ミューの安眠を守るという意味でも、放置が一番だろう。
佳乃に怒られて舌を出して逃げたイオタは、そのくせ佳乃の視界から出て行こうとはしない。一人拗ねているイオタは、誰かが声をかけてくれるのを待っていた。頼みの実兄デルタはアルプハと共に畑仕事をしており、イオタの側にはいない。となれば次に声をかけてくれそうなのは歳の近い双子だが、幼児期の女の子は男の子よりも心の成長が早い。実年齢こそ双子はイオタよりも年下ではあったが、立派な『お姉さん』だ。イオタ同様、佳乃を独占する事の多いミューに対しヤキモチを妬く事もあるが、だからと言って手も足もでない赤ん坊に対して悪戯は仕掛けない。
洗いたてのシーツを広げ、洗濯紐に干す。
不意に視界の隅に異変を感じ、佳乃は眉をひそめた。
違和感の正体を確かめようと視線をイオタのいた木陰へと動かすと、木陰にイオタの姿はない。が、どこかへ消えたわけではなかった。イオタの小さな身体は木陰を飛び出して、孤児院の門へと向かって走っていた。
いったい何を見つけたのか――?
そう思って佳乃が視線をイオタの向かう先へと移すと、佳乃がイオタの目標物に気がつく前に、洗い桶の中の双子がその姿に反応する。
「「あー! エンドリューさまだっ!!」」
はっきりと喜色の浮かんだ双子の言葉通り、門扉の前に丁度馬から下りている所のエンドリューの後姿が見えた。
馬を引いて門を通り、門扉を閉じるエンドリューを待ってから、イオタはその体に全身で抱きつく。
最初に聞こえた双子の声に振り返り、イオタの接近に気がついていたエンドリューは、難なくイオタの体を抱きとめる。そのままイオタの体を抱き上げると、目線を合わせてエンドリューは『こんにちは』と言った。それに対してイオタはこくりと頷いて答える。喉の傷口は完全に癒えている――そもそも、佳乃が初めて孤児院に来たころから傷自体は癒えていたらしい――が、イオタは未だに喋らなかった。
イオタを片手に抱いたまま馬の手綱を引くエンドリューに、双子は洗い桶を飛び出す。裸足のままエンドリューの元へと走り寄ると、口々に口を開いた。
「エンドリューさま、いらっしゃーい」
「しゃい」
泥だらけになった足を気にも留めず、囀る双子の頭をエンドリューは撫でる。
イオタにしたのと同じようにエンドリューが片膝を付いて目線を合わせると、双子は揃ってはにかんだ。
「こんにちは」
そう言いながら髪を撫でるエンドリューの手つきに、双子はうっとりと微笑む。記憶にはないが、自分達のおしめを変えてくれたらしいエンドリューが、イグラシオよりも好きだった。
「こーら、イータ、テータ!」
頭上から聞こえた『ママ』の声に、双子は揃って肩を震わせる。
言葉は怒っているが、本気ではないと判った。
「お洗濯手伝ってくれるんじゃなかったの?」
双子が振り返ると、眉をひそめて『怒っていますよ』とポーズを取っている佳乃が歩いてくる。
双子との挨拶が終わったエンドリューは、近づいてくる佳乃に合わせて、イオタを抱いたまま腰を上げた。
「足が泥だらけ」
言われて双子は自分達の足を見下ろす。
水の入った洗い桶から飛び出して来たため、足から水を吸い取った土が泥となって双子の足に纏わりついていた。
「お洗濯の続きをする前に、ちゃんと泥を流してね」
「「はーい!」」
仲良く答え、洗い桶の元へと戻る双子をエンドリューが見送ると、イオタの細い腕が首筋に絡まる。柔らかいイオタの髪が顎に触れてくすぐったい。
なにやら常以上に歓迎されているらしい状況に、エンドリューは眉をひそめた。
「? イオタはどうしたのかな?」
「拗ねているんですよ、さっき喧嘩をしたから」
「喧嘩?」
イオタと――口ぶりから察するに、佳乃が、という事になるのだろう。苦笑を浮かべたままの佳乃に、エンドリューはますます眉を寄せる。イオタが誰かと喧嘩をするというのも珍しいが、いい歳をした佳乃がそれに応じるというのも、可笑しな話だ。
「……というか、ヤキモチ?」
釈然としない表情をしたエンドリューに、佳乃は説明を追加した。これならば、エンドリューも納得をするだろう。甘えん坊なイオタが、佳乃から逃げる意味を。
「ミューを寝かしつけていたら、突然ミューのこと叩いて……怒ったから、さっきからずっと拗ねているんですよ」