トランバンの騎士
そう思ってしまえば、もう誤魔化しは効かない。
あの場所は確かに『森』であって、佳乃の知っている『場所』ではなかったのだろう。
現にあの森を出て、この『ネノフの家』まで歩いてきたが、人里らしい開けた場所にあるこの建物まで来ても、佳乃の見知った景色は無かった。建物はおろか、山々の形までもが佳乃の知っている風景となに一つとして合致しない。
そして、佳乃の知る限り、佳乃の住んでいた街に森と呼べるような場所は存在しなかった。必死に公園の林だろうと自分を誤魔化してはいたが、例え公園の林であったとしても、人が迷えるほどの広さはないだろう。佳乃の住んでいた町に、人が迷えるほどの広大な公園などない。佳乃にとって公園といえば、子どもの頃に遊んだ小さな公園があったが、そこにあった林は、本当に小さな林だ。子どものころの視線ですら小さな林と思えた場所だ。大人となった今の佳乃からしてみれば、林と呼ぶのもはばかられるかもしれない。
どう自分を誤魔化しても、あの場所は『森』なのだ。
そっとため息を漏らした佳乃に、イグラシオはティーカップを置く。中身はまだ残っていたが、自分の顔を盗み見た後、視線を落とした佳乃の瞳には理性の輝きが宿っている。ようやく本当の意味で落ち着きを取り戻したらしい。今ならば、先ほどよりはまともな回答が得られるだろう、と。
「それで、あなたはどこの村の者だ?」
「え?」
『村』という聞き慣れない単語に、佳乃は瞬く。
普通に考えれば『町』か『街』だろう。今時『村』などと呼ばれている集落がないことはないが、『町』に比べたら圧倒的に少ないはずだ。
僅かに眉をひそめた佳乃に気づかず、イグラシオはいくつかの名を上げた。
「あの森から一番近い村はこのムサリルだが、あなたはこの村の住人ではない」
ちらり、とイグラシオが老女を見ると、ネノフはそれを肯定するように頷いた。
なにやら気心が知れているらしい二人の仕草に、佳乃はイグラシオとネノフはただの知り合いではないのだろうと感じ、新たに得た情報を整理する。
あの場所はやはり彼から見ても『森』であり、今いる場所は『ムサリル』という村にある、『ネノフの家』という何らかの施設だ、と。
「……となると、ウエルかアロあたりが次に近いが――」
「ウエル? アロ?」
聞き覚えのない名前に、佳乃は首を傾げる。
その仕草に、イグラシオと老女は眉を寄せた。
「……違うのか?」
「どっちも、わたしの住んでた町の名前じゃない……です」
候補を挙げてくれるイグラシオには申し訳なかったが。
嘘偽り無く、二つとも聞き覚えのない名前だった。
「では、シムンヒあたり……」
と、別の名前を挙げてから、イグラシオは一度口を閉ざす。
「いや、それよりも……何故あんな時間に、森の中に? それも、女性が一人で」
「え? それは……わたしも知りたいです」
もっとも過ぎるイグラシオの問に、佳乃も至極まじめに答える。が、この場合、まじめに答えたつもりではあったが、相手にとってはそうは受け取ってもらえないだろう。どう考えても、佳乃の答えはイグラシオの問に対する答えにはなっていない。が、他に答えようもなく、佳乃は困ったように首を傾げる。佳乃にしてみれば、帰宅の途中にあり、気がついたらあの場所にいたのだ。それ以上も、それ以下の理由もない。
「気がついたら、あそこに居て……。
馬の足音がして、目の前を通り過ぎていって、男の人が2人……」
引き返してきて。
そう続けようとしたのだが、佳乃は口を閉ざす。
声を出したいのだが、出てこない。
真摯に自分の心配をしてくれているイグラシオに対し、自分も真剣に答えたいのだが、どうしても舌が回らない。
声を出そうとは思っているのだが、佳乃の唇から音がもれる代わりに、カタカタと肩が震え始めた。
「あ、れ……?」
カタカタと震える肩をとめようと、両手で押さえつけるのだが、震えは治まらない。
自分は何もされてはいない。
確かに怖い思いはさせられたが、髪一筋とはいえ、自分はあの男達には触れられていない。
そう解っているのに、あの二人の男を思い出すと佳乃の体は震えた。
「大丈夫よ。怖い思いをしたのね……」
不意に側へと移動してきた老女に椅子の背当てごと抱きしめられ、佳乃は瞬く。
佳乃の力以上に力強く体を抱きとめられ、女性特有の柔らかさと温もり、表現し難い何かに包まれて、佳乃は目を閉じた。
老女の入れてくれたハーブティーもそうだったが、抱擁という行為にも、人の心を落ち着ける効果がある気がする。そういえば、イグラシオの手に触れた時も、その温もりに僅かながら落ち着きを取り戻せた。
佳乃は老女に抱きしめられるままに首筋に顔を埋め、深呼吸をする。皺の刻まれた首筋に、ハーブティーと同じ匂いが染み付いていた。
ゆっくりと深呼吸を繰り返すと、徐々に佳乃の震えは治まる。
自分を抱きしめる老女の身体から少しだけ――完全に離れるには、まだ少し惜しい気がした――体を離して、佳乃はイグラシオに視線を移した。
「……あの、『ここ』はどこ、ですか?」
ムサリルという名の村だとは聞いたが、それはたぶん、佳乃の知りたい『ここ』とは根本的に異なる。
「あなたは、なんで……鎧なんて着ているの?」
ネノフに抱かれ、落ち着きを取り戻した佳乃は疑問に感じたことを全て口に出す。相手に与えられる情報を拾い取るより、自分から必要なことを聞いたほうが、お互いに時間のロスを最小限に抑えられる。そう思った。
「それって、コスプレ? なんでこんな時間に? こんな場所で?」
ぽろぽろともれる、佳乃としては至極真っ当な疑問に、今度はイグラシオと老女が瞬いて顔を見合わせる。
「あの馬本物? なんでこんなところに馬がいるの?」
馬に本物も偽物もあるのか、とイグラシオが思うよりも早く佳乃は次の疑問を口に出す。
「その髪は染めているの? それとも脱色? 目はカラコン?」
佳乃の疑問は、それだけではない。
イグラシオの鎧と剣も気になるが、他にも気になることが多すぎる。室内灯の役割を果たす電灯がなく、燭台にろうそくが灯されている。椅子と大きなテーブルのある室内は、おそらく食堂か何かだろう。少なくとも一般的な日本家屋には存在しないであろう暖炉があった。
わざわざ室内を見渡さなくとも、疑問は佳乃のすぐ側にもある。
佳乃を宥めるように抱きしめている老女。ろうそくの明かりにやや赤みを帯びて見えるが、その服は白と灰色を基調とした――所謂修道服だ。頭巾こそかぶってはいないが、他に思い浮かぶ名前は無い。
二人揃ってコスプレが趣味……と考えられなくもないが、そう片付けるには、建物や馬、小道具に至るまでの全てが大掛かりすぎる。
少なくとも、個人でできるレベルではない。