トランバンの騎士
「気にしないと誓うのなら、当て布を取ってやらんこともない」
「何、意味もなく偉そうに言ってるんですか。傷、治ってるんですよね?」
すっと目を細めた佳乃から、イグラシオはそっと目を逸らす。常に無いイグラシオの態度に痺れを切らせ、佳乃は実力行使に移った。
「……取りなさい」
頬の当て布めざして伸ばされた佳乃の手を、イグラシオは体を捻って避ける。元々身長差が大きいため、逆に佳乃の体を押えてしまえば、手を避けることは容易だった。
「気にしないと誓ったら、取ってやる」
「いいから取りなさい」
「断る」
一向に進まぬ押し問答に、佳乃は眉をひそめて体を引く。ほんの少しイグラシオから距離を取り、頬の当て布に狙いを定めた。
取れ、断ると続いた問答のため、イグラシオは佳乃の手を警戒している。こうなってしまえばイグラシオの油断でも誘わない限り、佳乃に手はない。佳乃は一市民であり、イグラシオは戦う事を仕事としている騎士だ。自分への攻撃には滅法強い。
それから佳乃は考える。
押してダメなら引いてみろ。
日本にある、古き良きありがたい言葉だ。
「……気にする、気にしないなんて」
そっと目を伏せ、佳乃は俯く。
「何を隠しているか教えてくれないと、わかりません」
「うっ……」
顔を伏せたため、佳乃からはイグラシオの表情は判らない。
が、押してダメなら引いてみろという言葉通り、しおらしく引く素振りを見せた佳乃にイグラシオが息を飲む音は聞こえた。
「……先に言っておく。おまえが気に病む必要はないからな」
イグラシオの中で、なにやら葛藤があったらしい。
イグラシオはたっぷりと間を置いてから、喉の奥から言葉をしぼりだした。
「?」
イグラシオから引き出した言葉に、内心では舌を出しながら佳乃は首を傾げつつ顔を上げる。自分の腕を掴んだ佳乃の手を取り、イグラシオは頬に――汚れた当て布の上に――佳乃の手を置いた。
『取って良い』という合図だろう。
傷の上に手を置いているというのに、イグラシオが苦痛に顔を歪ませることもない。
本当に、彼の傷は癒えているのだ。
佳乃は僅かに眉をひそめ、当て布の端を指でつまむ。そっと力を込めてイグラシオの頬から当て布を剥がすと、彼が『隠していた物』が姿を現した。
「……あ」
当て布の下から出てきた色黒の肌と、頬を走る3本の線に佳乃は瞬く。
一瞬、目の錯覚か? と指の腹でその線をなぞってみるが、滑らかな肌には僅かな隆起があった。3本の線は『線』ではなく、傷口を覆うために肌が隆起し、『傷跡』として刻み込まれているのだ。
3本の傷跡と、それを隠していたイグラシオ。
その傷はヒルダのナイフに拠るもので、イグラシオとヒルダが対峙したのは、佳乃が――
言葉の応酬からやや興奮状態にあった佳乃が、急速に落ち着いていくのを見て取ったイグラシオはそっとため息をもらした。
傷跡を凝視したまま口を閉ざす佳乃から、イグラシオは目を逸らす。
今のような表情をさせたくないからこそ、隠していた傷だ。
とはいえ、長く続けられる嘘ではない。いずれわかる事ならば、いつ告げても同じ事だ。
「……おまえが、気にする必要はない」
そう重ねるが、佳乃の表情は晴れない。
佳乃はイグラシオの傷跡をそっと撫でながら、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「でも……」
「気にするな。女性を守るために負った傷だ。騎士にとって、これ以上に名誉のある勲章はない」
イグラシオは放っておけばいつまでも頬を撫でていそうな佳乃の手を捕まえて、下ろす。
間接的にではあるが自分が付けた傷跡に、佳乃は本心から顔を伏せた。――というよりも、申し訳なさすぎてイグラシオの顔が直視できなかったという方が正しい。
「……どうして、そこまでしてくれるんですか?」
イグラシオの鎖骨辺りを見つめながら、佳乃は口を開く。
一生消えない傷跡をつけられてまで、何故イグラシオは佳乃を守ろうとするのだろうか。
佳乃にはそれが不思議だった。
佳乃とイグラシオの関係は、偶然助けられただけの物だ。その後佳乃は孤児院へと預けられ、イグラシオに生活の世話までされている。
少なくとも、佳乃であればそこまではしない。
まず夜道で女性が盗賊に襲われていようが見てみぬ振りをするし、どうにかして助けたとしても預けられる場所に預けてしまえばそれでおしまいだ。その後の様子を見に行ったりはしないと断言できる。
が、イグラシオは違った。
イグラシオは自分の身にも危険が及ぶことを省みず佳乃を助け、出自不明の娘を家族とも呼べる人物に預け、その生活を支えてくれている。そのうえ時々様子を見に来る所か、今もまだ佳乃の帰る場所を探してくれていた。
佳乃の視点から見るイグラシオは『いいひと』である。
が、佳乃にはその『いいひと』に親切にされる理由がなかった。
俯いたままの佳乃の言葉に、イグラシオは瞬く。
何故他人に親切にするのか。
そんなことは考えたこともなかった。
困っている誰かを助けることは、幼少期を孤児として『誰か』に助けられて生きてきたイグラシオにとっては普通のことだ。
今更考えるまでもない。
考えるまでもないことではあったが――確かに、自分は少し佳乃の事を気にかけすぎている気もした。
イグラシオはネノフに絶大な信頼を寄せている。彼女に預けたのだから、心配することは何もない。自分が頻繁に佳乃の様子を見に行く必要など、本当はなかった。にも関わらず、イグラシオの孤児院を訪ねる回数は増えている。
「そう……だな」
佳乃が納得するような答えを、イグラシオは用意できない。
自分と佳乃の育ちから来る考え方の違いは、嫌というほど理解していた。
「……ここに預けたから、かもしれないな」
本当に、理由らしい理由はないのだが。
肩を落として俯いたままの佳乃を納得させるために、イグラシオは無理矢理『それらしい理由』を探した。
「知ってのとおり、私はここで育った。ここは私の家であり、ネノフは私の母だ」
頭上から聞こえる声に、佳乃は顔を上げる。
気がついた。
イグラシオは、ヒルダと同じ事を言っている、と。
「だから歳は離れているが……、私はアルプハやビータを自分の弟や妹だと思っている」
視線を廻らせて、イグラシオは濡れた体を拭いている子ども達を見つめた。その足元に『僕は?』と問うようにイオタが近づくと、イグラシオは微笑みながらイオタの小さな頭を撫でる。
「それで、だろうな。ここに預けたおまえのことも……妹のように思い始めている」
自分の口から漏れた『妹』という表現に、一瞬だけ眉をひそめてイグラシオは視線を佳乃に戻した。
『妹』と呼ぶには多少のひっかかりを覚えるが、他に適切な言葉も見つからない。ビータや双子ほど歳が離れていないせいか、『妹』と役割を分けてしまうよりも『家族』と括ってしまう方がしっくりする。たった数ヶ月とはいえ、『ネノフの家』で弟妹や母と一緒に毎回自分を迎えてくれる佳乃は、イグラシオにとってすでに大切でかけがえのない存在になりつつあった。
悩みながらもポツポツと語るイグラシオを、佳乃は黙って見つめる。