トランバンの騎士
痛む尻を擦りながら一歩足を踏み出した佳乃に、父親は瞬く。その反応に、佳乃が近づいてくることを悟ったデルタが振り返った。
また何をされるかわからないから、近づくな。そう伝えたかったのだが、佳乃は僅かにデルタに微笑んだだけで、それを無視した。
一歩、また一歩と父親に近づき、その目を見つめたままネノフに問う。
「シスター、塵ほども存在を疑わなければ、信じられればってだけが条件なら、僧侶じゃなくても使える?」
本当は、『この世界の人間でなくとも』と聞きたかったが、さすがに言葉を選らんだ。
ゲームではシステム画面やはっきりとした数値、能力、職業等があったが、残念ながら今の佳乃には『ゲーム画面』を見ることはできない。そもそも、ドラゴンフォースというゲームの中に、『ネノフ』という『キャラクター』はいなかったし、ビータやアルプハも同じだ。たとえ『イグラシオ』達『ゲームに居たキャラクター』達に見えざる数値が存在したとしても、それが『見えない』ことは変わりない。『数値』で認識できないのならば、『HP』や『MP』等という『概念』を佳乃が一人で気にすることも無駄だ。
無駄なことならば、極力考えないようにする。
ネノフが『信じることだけが条件』だと言うのならば、佳乃は信じる――というよりも、佳乃には信じないことの方が難しかった。
「え? ええ」
核心をもって響く佳乃に声に、ネノフは戸惑いながらも答える。
街の大きな修道院で修行をしていた頃、僧侶ではなく旅の魔導師が『癒しの奇跡』を使っているのを見たことがあった。
「人はただ、女神の力をお借りするだけ。女神が人の手に宿り、力を貸してくださって初めて、癒しの奇跡は完成するの」
「他に必要なものはある?」
いわゆる『騎士』や『僧侶』である必要はあるのだろうか。
一定『レベル』の『MP』が必要なのだろうか。
そう聞きたかったが、これも言葉を濁した。
「……ないわ。何度も言うように、必要なのは女神の存在を疑わない事だけよ」
「だったら、できるかもしれない」
ネノフの言葉が本当ならば。
本当に必要な条件が『女神の存在を疑わない』ことだけならば。
佳乃にはそれができる。
否、佳乃には存在を疑う方が難しい。
佳乃は口元を引き締め、『MP』や『レベル』など難しく考えることを止める。
信じるだけなら簡単だ。――そう腹を決めた。
「いいかげんな事をっ!」
できるかもしれない。と言い切った佳乃に、ザイの父親は眦を吊り上げた。
現職の僧侶であっても信仰心を失う世の中にあって、佳乃のような『新米修道女』に奇跡など扱えるはずがない。目の前の娘は、自分の息子が死に掛けている時にネノフとのん気にも宗教論を交わす、場を読めない愚か者だと拳を握りしめた。
「信じるだけでいいんでしょ? だったらできます」
今にも殴りかからん勢いで自分を睨む男を、佳乃は睨み返す。間に立つデルタと、自分を支えてくれているビータが心強かった。――もっとも、彼らにしてみれば気の立っている男を挑発するような発言などせず、後ろに控えていて欲しかっただろうが。
「できるわけがない! 信仰心なんて欠片もなさそうなよそ者が、余計なことを……」
「じゃあ、黙って見てろって言うんですか? 試してみもしないで、最初から諦めるんですか? うまくいけば助かるかもしれないのに、何もしないで見殺しにするんですか?」
わたしは嫌です! と続けて、佳乃はザイの父親を押しのける。
先ほど突き飛ばされた事への仕返しの意味はない。
ただ、ザイの元へといく最短ルートにある『障害物』を押しのけただけだった。
「可能性があるのなら、なんだってします。わたしは確かによそ者だけど、ただのよそ者じゃない。この子たちのママなんですから!」
押しのけた男の脇を通り抜け、佳乃はザイの元へと歩く。
勝算はある。
『信じる』だけで良いというのなら、佳乃は『知っている』。
この『レジェンドラ大陸』は、今もなお『女神に守られた大地』であることを。
『子ども』という『結果』がいて『親』という『原因』がいないということはありえない。側に居るいないは別として、産まれてきた以上、子どもには必ず親が居る。それと同じように『当たり前に』、佳乃にとって『レジェンドラ大陸』には『女神が居る』ものだ。
それを今更疑うことなど、できなかった。
もちろん日本で信じられていた神や仏の存在を疑うな、と言われれば、それは難しい話であったが。
幸いなことに、佳乃が今信じるのは、レジェンドラ大陸の女神だ。
方法はわからない。
『道』としての『信仰』も知らない。
が、佳乃にはただ一つ、誰にも負けないものがあった。
長椅子に横たわるザイの傍らに寄り添い、佳乃は膝を折る。
胸の前で手を組み、何処に『居る』のかは判らないが、その存在が確かに『在る』と確信する女神に、佳乃は祈りを捧げた。
(女神アステアよ、私の手をあなたに捧げます。だから……)
具体的に、何をどうすれば『奇跡』が扱えるのかは解らなかった。
が、佳乃には普通では難しい『女神の存在を疑わない』事だけは呼吸をするのと同じぐらい簡単にできる。
目を閉じ、一心に祈る佳乃は――鼓膜を介さずに響く『苦笑』を『拾い』とった。
――私は本来、快癒は司っていないのですけど……――
ぽっと胸に浮かんだ柔らかく響く苦笑交じりの声音に、佳乃は安堵する。
聞き覚えのあるその声は、『レジェンドラ大陸』にいる『女神』の物だった。
ちらりと声優の声などとは思ったが、さすがに罰当たりな気がして思考から追い出す。
今はただ、目論みが成功した事を喜びたい。
――このぐらいの怪我ならば、私にも癒してあげられます――
自嘲する女神の声に暖かな気配に包まれるのを感じて、佳乃はそれに身を任せる。
母の腕の中とは、こんな感じだったのだろうか? と遠い記憶を探り、佳乃は女神の懐に抱かれた。
女神に捧げた両手が熱い。
温かいよりは熱い。熱いがそれは恐怖を感じるものではなく、やはり温かいという表現がしっくりくる気もした。
快癒を得意としないらしい女神に祈ったのは申し訳ない気もしたが、佳乃が『存在を知っている』のは、女神アステアと邪神マドルクだけだ。
佳乃には、女神アステアに縋るより他にない。
温かい存在に身を委ねながら、佳乃の唇には知らず安堵の微笑みが浮かび上がった。
「ザイ? ザイ!」
身近く聞こえる男の大声に、温もりを感じてまどろんでいた佳乃の意識は覚醒した。
気が付いてみると、もうどこにも女神の気配は感じない。永遠にも感じられた母の温もりも失われていた。請われて現出した女神は役目を追え、もうどこかに去ってしまったのだ。
それが少しだけ寂しく、また当たり前の事なのだと佳乃には解った。