トランバンの騎士
言葉にすることを迷うということは、佳乃にとっては必要なことだ。
今無理矢理イグラシオがしゃべらせなくとも、時が来れば自分から話すだろう、と佳乃を信じた。
会話を結んだイグラシオに、佳乃は瞬く。
言おうか、言うまいかと散々悩みはしたが、今一歩の勇気がなかった。折角のチャンスではあったのだが――はぐらかすことをイグラシオに赦されてしまい、佳乃としてはホッとしたような、残念なような、複雑な心境でイグラシオを見つめる。身だしなみを整える暇もないのか、たまたま深夜という時間帯のためか、見上げたイグラシオの顎周りには髭が少し伸びていた。
(……あ、れ?)
イグラシオからの会話の終了にホッと息を吐いた佳乃は、気が付く。
佳乃の知っている『レジェンドラ大陸』では、『ヒックスは閃光騎士団にいなかった』。
ということは、つまり――
(ヒックスさんが出奔したってことは、ハイランド軍が来るのって、もう少し……なの?)
あと少し待てば、イグラシオの悩みは解消されるのかもしれない。
その可能性に気が付き、佳乃は改めてイグラシオの目を見た。
「あの、イグラシオさん」
散々迷い言葉を濁していた佳乃に、急に元気良く顔を上げられ、イグラシオは瞬く。が、佳乃はそれには構わず続けた。
「ハイランドって国はありますか? そこの王様、どんな人かわかりませんか?」
ここが『レジェンドラ大陸』だとは思っている。『イグラシオ』や『ヒルダ』という情報も揃いすぎていた。が、それ以上の情報を、自分はまだ確認していなかったと佳乃は思いだす。もしも『ハイランド』という国がなければ、ここは『レジェンドラ大陸』ではないという事になる。すべてが佳乃の勘違いであれば、待っていてもイグラシオの悩みは解決されない。勘違いでなかったとしても、後どれぐらいの期間村人を抑えておけばハイランド軍が来るのかを知りたかった。
急に態度を変えた佳乃にイグラシオは瞬いていたが、すぐに眉を寄せて記憶を探る。
佳乃の問いへの答えを、イグラシオは満足には返せなかった。
「ハイランド王国は、トランバンの東南にある。現在の王は確か……40代だったか」
「40代? 17歳ではなくて?」
イグラシオの答えに、佳乃は首を傾げる。
確か『ハイランド王ウェイン』の年齢は17歳だったはずだ。
「ハイランド王国は騎士の国というだけあって、王も臣民を健全な魂と肉体を有している。先の王が暗殺でもされぬかぎり、17という若さで王位に着くことはないだろう」
普通に王位を継ぐのなら、王が年老いて位を退くか、崩御してからということになる。今の王が40代ということは、位を降りるにしても、崩御するにしても、まだまだ先の話だろう。
『普通』であれば。
医療技術の発達していない『ファンタジー世界』では、平均寿命も短いのだろう。佳乃はそう漠然と考えていたのだが、孤児院で暮らすようになり、その考えが間違いであったことを知った。平均寿命そのものは現代とそう変わらない。出生率は現代日本と比べて恐ろしく高いが、無事に育つ確率は逆に低い。
そこから考えるに、現在40代の王が位を退くか崩御するのはまだまだ20年はあるだろう。
やはり、ここが『レジェンドラ大陸』というのは、自分の勘違いなのだろうか? そう眉をひそめた佳乃の変化に、イグラシオは眉をひそめながらも続けた。
「いや、待て。確か……今年17かそこらになる王子がいたはずだな」
「確かって、正確には判らないんですか……?」
「なにぶん、他国の王族の情報だからな。こればかりは……」
「……そうですか」
しゅんっと俯いた佳乃に、イグラシオは首を傾げる。
元気になったかと思えば、またすぐに肩を落とした佳乃に、イグラシオは一度引っ込めた話題を戻した。
「何故、そんな事を突然? ……ハイランド王国が故郷なのか?」
「え? あ、違います」
自分の質問にゆるく首を振って答えた佳乃に、イグラシオは無意識に安堵のため息をもらし――すぐにそれに気が付き、イグラシオは内心で眉をひそめた。自分は今、いったい何に対して安堵したのか、と。
「帰る場所を思い出したのなら、必ず私が送っていってやろう。だが、しばらく待て。トランバンが落ち着くまで、時間が取れない」
そう口に出して、思い出した。
佳乃は元々、孤児院の人間ではない。いずれは帰るべき場所へと送って行き、離れる存在であった。
いつのまにか孤児院に馴染み、子ども達と共に自分を迎えてくれていたので、イグラシオはそれをすっかり失念していた。
その事実に急速に気づかされ、イグラシオは眉をひそめる。
陽気でムードメーカーの役割を果たしていたヒックスが出奔し、市民の領主への不満は募るばかり。ついには暴動に発展するケースも出はじめ、それらの鎮圧に忙殺されて孤児院へ向かう足が遠のき、今度は佳乃までもが遠くへ行ってしまう。
見下ろす佳乃の存在を、イグラシオは試しに『消して』みた。
孤児院に食料を運ぶ自分を迎えるのはミューを抱いたネノフで、子ども達はビータを中心に纏まっているのだろう。
佳乃一人いなくなったとしても、それだけだ。何も変わらない。ただ佳乃用に納屋から出した椅子が、また納屋の奥へと片付けられるだけだ。
孤児院へ佳乃を預ける前の状態に戻るだけだと、理性では判っていたが――目の前にいる娘が居なくなり、ただ一人で暗い部屋の中に立っているのだと考えると薄ら寒い。
イグラシオにとって佳乃はすでに孤児院の一部になっている。
その佳乃が居なくなるのは、情けないことに寂しくもあった。
手放したくない――そうも思っている。
「あの、イグラシオ様?」
いつの間にか呼び方を『さん』から『様』に直した佳乃に、イグラシオの意識は現実へと引き戻された。
『目の前』に、心配気に眉を寄せた佳乃が立っている。
「やっぱり、体が冷えているんじゃあ……?」
じっと自分の顔を見つめたまま動かないイグラシオに、眉をひそめたまま佳乃は手を伸ばす。
試しに両手でイグラシオの右手を包むと、その手は氷のように冷たかった。
「ああ、やっぱり冷たい。こんなに冷えて……」
ほぅっと息を吹きかけ、優しく自分の手をこすり始めた佳乃から、イグラシオは顔を逸らす。
吐息以上に温かく柔らかい佳乃の手を『慌てて』振り払い、右手を背中へと隠した。
「気にするな」
「気にします」
素っ気無く突き放された佳乃は一瞬だけまたたき、眉をひそめてイグラシオを見上げた。
先ほどは目の前に居ることに安心した存在を、今度は視界から締め出してイグラシオは眉を寄せる。
なにやら急に不機嫌になったらしいイグラシオに、佳乃は僅かに首を傾げた。
「とにかく、今お茶を入れるから、少しだけでも休んでいってください」
「いらぬ」
「気にしなくても、井戸水はタダですし、お茶だってシスターの自家菜園だから、タダですよ」
何をどう勘違いしたのか、佳乃はそう苦笑いを浮かべる。
それから宣言どおりに台所へ移動しようとイグラシオに背中を向け――佳乃が背を向けたことで視線を戻したイグラシオは、髪の隙間から覗く佳乃の白いうなじに、無意識に手を伸ばした。