トランバンの騎士
腕の中にすっぽりと収まった細い体を抱きしめる。
その白い首筋に、イグラシオは顔を埋めた。
素肌の密着した部分――というよりも、夜着が薄いため、触れた部分すべて――から、佳乃の体温が伝わってきて温かい。
逆に考えれば、佳乃は自分の肌が触れている部分から熱を奪われて冷たいのだろう。
首筋に顔を埋めたため、男の物とは明らかに違う女の香りが鼻腔をくすぐった。
腕の中に捕らえた柔らかな女の体に、イグラシオの欲望が鎌首をもたげる。それに突き動かされるかのように、イグラシオは佳乃の白い首筋に唇を落とし――びくりっと震えた佳乃の肩に、はっと我に返った。
柔らかい女の身体と温もりに、『誘われて』しまった、と。
「……あの、イグラシオさん?」
背後から抱きしめられたため、自分の顔のすぐ横にイグラシオの頭がある。そのイグラシオの銀髪を見つめ、佳乃は眉をひそめた。
肌に触れたイグラシオの体温は、驚くほどに冷たい。触れた部分から自分の体温が奪われているのがわかったが、それ以上に気になることが一つある。
「髭が……痛いです」
「…………」
ちくちくと首筋に刺さる髭に佳乃がそう悲鳴を上げると、しばしの沈黙があたりを包んだ。その後、不意に項垂れていた銀髪の男は顔をあげ――佳乃の首筋に、自信の顎を――つまりは髭を――押し当てた。
「い、たたたたたたっ! 痛い! 痛い! ってか、チクチクしますっ!!」
意図的な首筋への『頬ずり』に、佳乃はたまらず悲鳴をあげる。ただし、夜中であるために声をひそめることは忘れていない。
ひそめてはいるが明るい佳乃の悲鳴に、イグラシオは苦笑を浮かべる。それから最後に一度首筋に唇を落とし、顔を上げて佳乃の頭の上に自分の顎をのせた。髭によるチクチク攻撃から開放された佳乃は、未だにイグラシオの腕の中にいる。腰に回した腕から力を抜いても、佳乃がそこから逃げだす事はなかった。
「……おまえの身体は温かいな」
素肌に触れた部分から伝わる佳乃の体温に、イグラシオはそう洩らす。
それに対し、佳乃は僅かに首を傾げて答えた。
「ついさっきまで、寝てましたから」
雨音になかなか寝付けなかったが、少し前までベッドの中でまどろんでいた事にかわりはない。今すぐベッドに戻れば、その褥はまだ体温で温まったまま、温かく佳乃を迎えてくれるだろう。
「……そういえば、『おやすみのキス』はちゃんとしているのか?」
孤児院に預けたばかりの頃は、『おやすみのキス』などした事もされた事もないと佳乃は戸惑っていた。それを思い出し、イグラシオは漆黒の頭の上から佳乃を見下ろし――すぐに視線を戻した。真上というのは、よろしくない。薄い夜着を押し上げる二つの膨らみが真下にあるため、それがいつもより強調されて見えた。普段は厚い修道服に隠された胸元に、小さなホクロを見つける。下心から意図的に見下ろした訳ではないが、イグラシオはそれを記憶から追い出すことに苦労させられた。
「今では普通にできますよ」
頭上の葛藤など露知らず、佳乃はイグラシオを見上げてそう答える。
子ども達にするのと同じ気持ちでイグラシオにキスすることはできないが、ネノフからキスを受けることも、子ども達にキスをすることも慣れた。
「額は挨拶」
見上げたためにむき出しになった佳乃の額に、イグラシオは唇を落とす。
「頬は親愛、手の甲へは尊敬、手のひらへは願い――」
頬、手の甲、と挙げた箇所に唇を落としながら、イグラシオは自然な仕草で佳乃の体を向きを変えながら開放する。
向き合う形で手のひらに唇を落とし、最後に手首に口付け――イグラシオは口を閉ざす。
「……手首への意味は?」
首を傾げてそう問う佳乃に、イグラシオは忍び笑う。
それを教えることは、躊躇われた。
「……さあ、なんだったかな?」
「え? 言いだしっぺが忘れるなんて、ひどい」
わざととぼけたイグラシオに、佳乃は眉を寄せて怒った。
上目遣いに拗ねた表情で唇を尖らせている薄着の娘など、『今の』イグラシオには危険物以外の何物でもない。
「ははっ。すまないな。次に逢うまでに思いだしておく」
自分の肩にかけられたショールを佳乃の肩へ戻し、イグラシオは佳乃の体の向きを変える。そっとその背中を押し出して、小さく笑った。
「すまないが、やはり茶をもらえるか?」
熱いやつを。そう続いたイグラシオの言葉に、佳乃は笑う。
どうやら時間はないが、休憩はしていってくれるらしい。
「はい」
イグラシオの言葉に佳乃は素直に答えると、押されるままに台所へと足を踏み出した。
音を立てないようにそっと台所のドアをあけ、佳乃は台所へと入る。
開けた時同様に、音を立てないようにドアを閉めると、佳乃はその場に座りこんだ。というよりも、むしろ腰を抜かしたと言った方が正しい。
「〜〜〜〜っ!!」
急速に体中の血液が顔に集まるのを感じ、佳乃は床に突っ伏す。背筋を駆けのぼってくるむず痒さに耐えようと拳を振り上げ――まさかそのままの勢いで床を叩くわけにもいかず、佳乃は振り上げた手で首筋を押さえた。
佳乃の手の下は、先ほどイグラシオが顎を――髭ともいう――のせた場所だ。
チクチクとした髭攻撃の終わりに、ちゅっと唇を落とされた――
「…………」
ぽっと頬を赤く染め、佳乃は床に額を押し付ける。
板張りの床が火照った顔の熱を吸い取ってくれて、気持ちが良かった。
家人が寝静まった夜中であるため、情けなくも赤面した顔は誰にも見られていないのだが、佳乃は恥らって身悶える。
さすがは騎士。
たまに佳乃が気恥ずかしさで身悶えるような行為を、平然としてみせる。
親愛のキスや女性を大切に扱うことを当然と考えるイグラシオにとっては、なんの意味もない行為であろう。そう解っているので、その場でうろたえることが悔しく、促されるまま台所へと逃げ出してきたが――体を離したために余計に生々しく思い出されるイグラシオの体温と息遣い。それに誘われて思いだされた先日の見事な裸身に、佳乃は両手で頬を押さえる。冷たい指先が心地よい。
佳乃が台所へと消えて行ったドアを見つめ、イグラシオは深くため息をもらした。
燭台の上で揺れる炎に、部屋に一人残されたイグラシオは自己嫌悪に沈む。
すぐに我に返ったから良かったが、佳乃を抱きしめた瞬間、確かに欲望を自覚した。
柔らかい女の身体とぬくもりに、誘われた。
腕の中に閉じ込めた身体と、その白い首筋に唇を落とした。
意図せず視界に飛び込んできたはずではあったが、視界に捉えた素肌を自分の目は無自覚のまま舐めるように観察していた。でなければ、一瞬視界に入っただけの胸元に小さなホクロを見つけることなど不可能だったろう。
あの瞬間、確かに自分は欲望に突き動かされていたのだ。
髭が痛いという佳乃に乗って、『ふざけただけ』というポーズと取ることに成功はしたが――今夜、このまま佳乃の側にいることは躊躇われた。
佳乃は街の商売女とは違う。
疲れたから、溜まっているからといって、軽い気持ちで癒しを求めて良い相手ではない。