トランバンの騎士
純朴な佳乃に割り切った関係など望めるはずもなかったし、イグラシオとしても『妹』に手を出すほど飢えてはいない。
(……妹のようなもの、か)
以前、自分が口にした単語に、イグラシオは自嘲の笑みを浮かべた。
同じ『妹』であっても、ビータやエプサイランを相手に自分が『反応』するとは思えない。あの少女達を相手に考えるのならば、『妹』という単語以上にしっくりと当てはまる物はなかった。
が、それを佳乃に当てはめると――恐ろしく安定の悪い『例』だ。『妹』という単語は。
「……台所に追い払って、正解だな」
視線を壁にかけられた雨具へと向けて、イグラシオは独り言つ。
あのまま佳乃を側に置いておけば、自分が佳乃に何をしていたかわからない。佳乃は気が付いていなかったようだが、自分の指先が夜着の合わせへと進入しようとしていたのを、イグラシオは知っている。自分の事ながらあまりの手の早さに辟易し――
イグラシオは壁にかけられた雨具へと手を伸ばした。
可能な限り音を立てないように、と佳乃は気をつけながらハーブティーを淹れていたのだが、やはり物音はしていたらしい。
台所へと起きだしてきたネノフが、お茶の仕度をしている佳乃に眉をひそめた。
「いったい何事?」
「あ、起しちゃいましたか?」
「今夜は雨音で、眠りが浅かったから……」
そう言いながら台所へと入ってくるネノフに、佳乃は内心でホッと息をはく。
頬の熱はすでに冷めているが、もう一度イグラシオと2人きりになると思うと――先ほどの『親愛のキス』を思いだしてしまい、どうにも落ち着かなかった。
が、ネノフが起きだして来たということは、ネノフも久しぶりにイグラシオの顔をみたいだろう。
当然、ネノフもイグラシオの待つ談話室へと移動することになり、佳乃とイグラシオが2人きりという状況にはならない。
「それで、どうしたの? こんな時間に」
佳乃はネノフが2人分用意されたティーカップに眉をひそめているのに気が付き、その理由を話した。
「イグラシオさんが来ているんです」
「こんな時間に?」
ネノフは佳乃の言葉に瞬き、またすぐに眉をひそめた。
「何かあったの?」
「いえ、そういう訳じゃなくて……」
そういえば、イグラシオが無理矢理時間を作ってまで真夜中孤児院へとやって来たのは、自分を気にかけてくれてのことだった。
それを思い出し、佳乃の冷めたはずの頬が急速に熱を持つ。
イグラシオに気にかけられていたことが、嬉しくも申し訳なかった。
「?」
ぽっと頬を染め、言葉を濁した佳乃にネノフは首を傾げる。が、すぐに『まあ、いいか』と気にしないことにした。
良い知らせであれ、悪い知らせであれ、イグラシオが来ているのなら、なにやら恥らっている佳乃に聞くよりも直接本人に聞いた方が早いだろう、と。
「……あれ?」
熱いハーブティーの入ったティーポットとカップを盆にのせ、佳乃とネノフが談話室へと戻った時、そこにイグラシオの姿はなかった。
明かりの灯った燭台だけがテーブルの上に鎮座する部屋を見つめ、佳乃は戸口に立ったまま小首を傾げて瞬く。そんな佳乃の横に並び、同じく部屋を見渡したネノフが呟いた。
「居ないわね」
「そんなはずは……」
きょろきょろと暗い部屋を見渡しながら、佳乃は盆をテーブルの上に載せる。テーブルに燭台が載っているのだから、まさか自分が夢を見ていたということはないだろう。そう思い、佳乃は燭台を手に取る。
そういえば、イグラシオは雨具を纏って来た。自分はそれを脱がせ、壁にかけ――燭台の明かりに照らし出された床の水滴に、確かにイグラシオは居たのだと確認できた。
床に残った水滴を佳乃に示され、ネノフは首を傾げる。
大雨の降る深夜に『イグラシオが来た』などと、佳乃が寝ぼけていた訳ではない。それは証明された。
「何か、また用事でもできてしまったのかしらね」
だから、お茶の準備をしている間に何も告げずに帰ってしまったのかもしれない。
そもそもイグラシオが訪ねてくる時間としても、別の誰かが訪ねてくる時間としても、真夜中という時間帯は常識外れだ。
首を傾げてそう呟くネノフに、佳乃は納得ができず、そっと目を伏せた。
「でも、イグラシオさん……自分でお茶を淹れてくれっていったのに……」
部屋の中にイグラシオの姿を求め、見つからない。
諦めきれずに佳乃は玄関の扉を開いてみたが、外は暗闇。厚い雲から洩れるわずかな月明かりのお陰で数メートル先は見えたが、それ以上先は見えない。雨脚は相変わらず激しく、止む気配はなかった。
佳乃は玄関先に立ち、見える範囲を見渡してみたが――やはりイグラシオの姿は見えない。
地表を覆う雨水と、そこに落ちて跳ねる雨粒を見つめ、佳乃は何も告げずに帰ってしまったイグラシオの事を考えた。
こんな天気の日に、それも真夜中でなければ時間が取れないほどに、イグラシオは忙しい。
とても疲れた顔をしていた。
雨の中、トランバンからここまで来たせいもあるだろうが、体も冷え切っていた。
それに、イグラシオには元々佳乃とは関わりのない悩みがある。
それもまだ解決はしていないはずだ。
悩みを増やした佳乃yと交わしたひと月以上前の約束を果たすよりも、『騎士』としてのイグラシオには重要な悩みが。
(……ハイランドって、どれぐらい遠いんだろ……)
降りしきる雨を見つめながら、ぼんやりと考える。
イグラシオの悩みは、自分が無理矢理聞き出したりせずとも、じきに解消される。それを佳乃は知っているが――それが『いつなのか』までは解らない。
イグラシオの話では、『ゲームの中』で『トランバンを開放』した『ウェイン王』はまだ王子だ。ハイランドの王は未だに現役で、いつウェインが王位に着くかも判らない。
この電話などの情報伝達網が発達していない世界では、どこの国の事情であれ、最新の情報を得ることは難しい。
(……行って、みようかな……)
おおよそ現実的ではない案が浮かび、佳乃は自嘲の笑みを浮かべる。
否。現実的ではないという否定こそが『現実的ではない』。
佳乃にできる一番現実的で実現性のある考えが、『ハイランドまで行ってみよう』であろう。
少なくとも、孤児院でじっとしているよりは世情を知ることができる。
ハイランドがどんなに離れた場所にあろうとも、そこへの道は地続きだ。佳乃が自分の家に帰るよりはずっと簡単な道のりだろう。足をただひたすらに前へ、前へとだしていれば、いずれ必ず辿りつく。
ただ一つ佳乃に足りないのは、勇気だ。
イグラシオに本当のことを未だに話せていないように、佳乃には孤児院の敷地から一歩踏み出すための勇気が足りなかった。
降りしきる雨を佳乃が眺めていると、ネノフが玄関の扉を閉めながら口を開く。
「さあ、イグラシオ様はもういないようだから、あなたも寝なさい」
ネノフにそう促され、佳乃は反射的に頷きかけたが止めた。
閉められた扉から視線をティーポットに移し、佳乃は歯切れ悪くネノフに答える。
「ん、でも……お茶を淹れてくれって言ったの、イグラシオさんだから。少しだけ外に出てるのかもしれないでしょ?」