スーパーノヴァ
僕は自分の耳を疑った。過去、あったか無かったかのつきあいの中で彼女が僕に望んだことと言えば、そう、ディスプレイをもう一つ用意して欲しいとか、メモリを増設して欲しいとか、いわゆる「業務上の改善希望」のようなものだった。
「会える、会おう、長門君に見せたい本も次に持ってくるから」
「…………」
さすがに長門君が「嬉しい」とか「良かった」とか言うことはなく、しかし、今度も明確に縦に首を振ってくれた。じわ、と、外気の暑さ以外の熱が内側から沁みるようだった。この感情が希薄に見えるような美しい人から、次の約束を求められたことに、僕が嬉しさを隠せなくても仕方がない、おかしくはない。
送ろうか、と言うと、彼女は首を横に振った。それは禁止されている、とも言ったから、彼女のご家族は彼女が異性と交友関係を持つのを快く思わないかもしれない。自分が浮かれすぎているのかもしれないと思って、慌てて
「そういうつもりじゃなかったんだけど、うん、うんと、その、……」
と、弁解はぎこちなくなってしまう。下心はない、と言い切れない自分を何だか残念に思った。彼女に頼られたいと考えているのだから、下心はあるのだ。
「……ありがとう」
「うん」
ファミレスに来たときのように、並んで図書館まで戻る。ふと視線を下に向けると、彼女の白い肩と、その下方にはスカートがふわふわ揺れるのが見えて、その布がいかにも頼りなげで、どきりとした。高校の制服の方がよほど短く露出も高かったのに、軽そうな布に僕は困ってしまったのだった。
また会おう、と言ったものの、僕は携帯電話を持ってきてはいなかった。間が悪いというか、運が悪いというか、そういうタイミングだったから図書館に行って長門君に会えたんだけども。長門君も長門君で、僕が電話番号を交換しようと言うと、
「持っていない」
と答えた。それなら仕方がない。
「君さえ良ければ、明日また、ここで」
「……分かった」
開けた場所でも室内でも同じように響く彼女の声を不思議だと思いながら、僕は約束を取り付けたことにとても満足し、気持ちは高揚した。
暑いけども、背中を伝う汗はやはり気持ちの良いものではないけども、とても愉快な気持ちになり、彼女に
「また明日」
と挨拶をして、彼女が帰るのを、降り注ぐ日差しから何も身を守るものを持たないまま見送った。白い肩と白い服が、きつい日の光とアスファルトの道の黒とのコントラストとで、じわりと消えてしまいそうだったから、目を離せなかった。
彼女が角を曲がったら、僕も帰ろう。
そう思って、じっと見つめていると、彼女は角に差し掛かったところでぴたりと止まり、踵を返してとことこ戻ってくる。そのスピードもゆっくりしたものだったから、じれったくなった僕は彼女に駆け寄って
「どうかした?」
と尋ねた。
「……鞄を」
「え?」
「もしも私のために購入したのなら、明日、代金を払うので心配はいらない」
僕が畳んだまま持っている、このエコバッグのことを言っているのだろう、と、すぐには気付けず、僕は目を見張って彼女をじいっと見てしまった。
そう言う彼女の、額に汗ひとつ浮かばせるでもない、暑そうな雰囲気がどこにも出ていない様子。僕は無意味に苦しいような悲しいような気持ちになった。むしろその考え方のほうが心配だ、と、言葉にしても良いものか分からないまま。
「安物だし、急に付き合わせてしまったわけだし、何より君はこのバッグを使ってはいないのに?」
「……」
「お金はいいよ。でも僕に悪いなと思うなら、これを使って欲しいんだけど、それは何か君の主義や主張なんかに反したりするのかな」
「……あなたに対価を、」
「いらない。今日、久しぶりに再会出来て一緒にご飯を食べられたことが僕には嬉しいんだ。それで充分、君はこのバッグを受け取って良い理由になると思うよ」
援助交際、という言葉がふと頭に浮かぶが、そういうつもりじゃないので黙っておいた。
彼女は微動だにせず黙した後、柔らかそうな手をこちらに伸ばしてくるので、僕は畳んだままのエコバッグをばさりと一度広げてから、彼女の手に渡した。
彼女が抱えている、僕が棚から取ってあげた本と、もう一冊の本を彼女の腕から抜き取って、彼女が覗き込んだエコバッグに入れてやった。顔を上げた長門君はやっぱり不思議そうな顔をしている。困ったな、何だか可愛い。
「図書館に来るときには使ってくれると嬉しい。そんなにたいしたものじゃないけど……」
こくり、とひとつ頭を動かして、彼女は再度踵を返して帰途を進むこと数歩。長門君はスカートをふわりと翻してまた戻ってきた。エコバッグを使ってもらえて良かったと、そのシルエットを見てしみじみ思っていた僕を注意しに来たのかと思ってしまった。
「ど、どうしたんだ」
「わたしたちは、付き合っている?」
「えっ?」
「……違う?」
「付き合うって、えっ」
好きな人同士が交際する、そういう付き合う、ということを彼女は言っているのだろうか。僕の方の感覚としては、「久々の再会と次の約束」であって、そんなに色気のある話じゃなかった。色気、の、フラッグくらいにはなっていたかもしれないけど(何せ僕はそういう付き合いをしたことがないから、判断に迷う部分がたくさんある)、それももっと時間が過ぎてから今日のことを振り返って色気の有る無いを決めるならともかく。
「僕は……」
何と行ったら良いものか、と彼女の宇宙を思わせる双眸を見つめ返しながら、その静かなたたずまいの前で嘘をつくのは難しいと思った。
「今日、君が僕が思っているより楽しかったっていうなら、明日また会ったときに教えて欲しい。……それで明日会って、その後も何度か続くようでやっぱり君が楽しかったら、付き合おうか。僕はきっと君から学ぶことが沢山あって、君のほうにはあるかは分からないから、今日、今ここで決めることはないと思うよ」
君と言う存在に対して、それは持ったないと思うからだ。というのは言えなかった。少し格好つけたくて、でもどのくらい格好つけたら良いものやら、やっぱり判断しかねたからだ。このあたりが格好悪い。
彼女はまた小さく頷いて、
「わたしはあなたから学ぶべきことがある。明日も、その後も考えは変わらない。でもあなたが後日決めるべきだと言うなら従う……また明日」
何だか、魔女の予言のように厳かに彼女が返事をくれた後、急に蝉の声がやかましく聞こえてきて、そうか彼女の発言の間は世界中の時間が止まるんだな、なんて非常識なことを考えては納得してしまった。それくらいに、彼女の言葉は僕の中に染み入った。
僕と長門君の付き合いは、こうやって始まった。後から振り返っても奇妙だし、今、目の前でものすごい量のスパゲッティを黙々と食べ続けている彼女を見ても奇妙だと思う。その彼女の左肘のあたりに無造作に置かれたエコバッグにはやっぱり今日も二冊の分厚い図書館の本と、僕が貸したパソコン雑誌が一冊入っていて、僕をくすぐったい気持ちにさせてくれた。
僕が彼女に与えられるものは何だろうか。彼女は、僕から学ぶことがあると言っていたけど、生憎僕にはそう思えず、申し訳ないような気持ちになるのだ。