嘘吐きラバー
「静雄ってキス好きだよな」
「な、ばっ」
「でも俺の事はもっと好きだろ?」
「っ……なんでそんな歯の浮くような台詞ぺらぺら喋れンだよ……」
記憶が戻ったとして、千景を恋愛対象として見られるようになったとしても俺はとてもそんな事は言えないだろう。好意を伝えるのも伝えられるのも慣れていないし、強い羞恥も感じる。恋愛だけじゃなく、人との関わりには奥手で受け身な俺には、強く押せる千景が同じ男として少しばかり羨ましい気もした。
「なんでって……静雄が大好きだからに決まってんよ」
「……判った。お前はそういう奴なんだな」
諦めて肩を竦めると、それを勝利と受け取ったらしい千景が誇らしげに胸を張る。未だ俺は、千景に好きとは言っていなかった。それは記憶が戻ってから、正式に言いたい。俺の記憶が戻るなんて保証は何処にも無いし、手探りで色んな情報に触れる俺は毎日が不安で堪らない。こんな状態じゃまともに働けないからと上司と後輩(だと千景が教えてくれた人)に断って長期の休暇を貰っている。
千景は遅くても、ゆっくりでも構わないから少しずつ思い出せば良いと言ってくれる。でも俺は、不安なんだ。自分が判らず、誰も判らない。今が。
「ほら、出掛けンだから準備しろ、顔洗って歯磨け」
「静雄ってどっちかっていうと主夫……っつーかお母さんみたいだな」
「なんか言ったか?」
俺の凄みを聞いた千景はそそくさと洗面所に消えていく。顔は笑っていたから単に面白がっているだけだろう。
着替えを済ませた俺と千景が並んで外に出る。玄関にバイクが置いてあったが、「静雄と歩きたい」と言って今日は徒歩だ。朝食が遅かった為に、昼に近い刻限となった休日の都会は喧騒で満ちている。近場の百貨店に入って買い物籠を取ると、一瞬で千景に奪われる。にんまりとした表情から何が言いたいのかは判る。判るんだが。
「良いって、俺のが年上なんだぞ」
「ムードがあるじゃんか。これは俺の仕事だ! 的な」
「ついでに言うと俺の方がお前の一万倍くらい力があるんだが」
「痛いとこを突くな……まあ気にすんなって」
でも俺にもプライドはある。年下で自分より背の低い千景に荷物を持たせるのも居心地が悪いんだが、是が非でもこうしたいらしいから放っておく事にした。さっさと前を歩く俺に調子の良い事を言いながら千景が追い縋る。
「しーずーおー」
「うっせえ、荷物持ち」
「ぐ……。とりあえず牛乳買おうぜ。下に重いものな」
流石に一人暮らししているお陰か、パンを一番下に敷く事は無さそうで安心した。夕食を何にするかで僅かに揉めたが、じゃんけんの結果、千景の希望するカレーになった。切って煮込んでルウを入れるだけの実に簡単な料理だが、半ば居候させて貰っている身なのでもう少し工夫したものを作ってやりたい。そう考え、きんぴらごぼうでも追加しようと千景にバレないように籠に材料を放り込んだ。
それから諸々の物を購入すれば、久しぶりの買い物だっただけあって盛り上がった袋が三つ。すかさず二つ持とうとした俺を制して勝ち誇ったような顔をされる。
「お前な……」
「いーのいーの」
千景の邪気の無い顔を見ていると、何処かほっとする。呆れるように苦笑した俺に千景は笑いかけ、街中を歩きだした。
「昼は何が良い?」
「んーそうだな……ハンバーガーって気分じゃねえし。でも米もなぁ……パスタとか?」
「あ、なら良いイタ飯のとこ知ってるぜ。何しろ店長が女だしな!」
「基準が可笑しいぞ」
俺が吹き出しながらつっこみを入れれば、千景は指先でストローハットを直しながら意気揚々と語り始めた。
「なに、店の責任者、またはウェイトレスが女性か否かは重要なポイントだぞ! 野郎が作って野郎が運んできた料理とレディの白魚の手で触れられた料理、静雄はどっちが食べたい!」
「……何処からつっこめば良いんだ。とりあえず、ウェイトレスは全員女だ。男はウェイター」
「うお、そうだったな。でも男は男でも、静雄だったら何でも喰うぞ、俺は」
「……んー、もう黙って良いか」
「良くねえええ! ひっでえなあ静雄は……折角、」
そこで、かなり不自然に千景が言葉を切った。音の余韻を追いかけて振り返ると、千景は雑踏の中のある一点を凝視していた。俺も同じ方向に視線を向けるが特に何も無い。人でごった返しているだけだ。知り合いでも見つけたのだろうかと問おうと、再度振り向こうとすると同時に、袋を持っていない手がいきなり握られた。
「あ!?」
「静雄、こっち! 走れ!」
有無を言わさず千景が走り出し、引っ張られる俺も人の波をかきわけるような形で進む破目になる。冷静に考えれば迷惑極まりない行為で、現に何人かぶつかった人物からは不快の眼で見られた。しかし一人一人に頭を下げる時間など無く、ただ俺は自分を引っ張る男の背中に向かって叫ぶ事すらままならない。
「ち、かげっ……何が」
「良いから走れ!」
土地勘を活かして千景は、まるで何かから逃げるように狭い路地を通って追走者を撒こうといった動きを取る。訳が判らない俺は操り人形のようにただ足だけを動かし……そして別の通りに出たところでようやく千景が足を止めた。お互いに全力疾走に近い体力の消費だったので暫くは会話も無く、呼吸が落ち着いてくると千景は何かを探すようにしきりに首を動かす。その動作から、やっぱり誰かから逃げようとしたんだと気付いた。
「一体、何、……なんなんだよ」
「ご、め……ちょっと、な。ひと」
また、千景の言葉が途切れる。しかし違和感を感じたのはその言葉が終わるよりも先で、この人の洪水の中でも判る異質を感じ取ったんだった。その異質がある方に焦点を合わせる。人目見ただけで「違う」と言わしめる存在感。黒髪、黒い服。その男は、無表情で俺に射抜くような視線を浴びせて来た。せり上がってきたのは、形容しがたい、寒気。
「……見つけた」