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Don’t Look At Me

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「無理でもなんでもこいつを何とかしてくれ!て、うわっお前どこ触ってんだ。ボタンとベルトを外すんじゃねえ!」
 なんとも恐ろしい台詞である。いや、一番恐ろしいのは見境が完全になくなった忍足だろう。すでに自分を見失って宍戸を跡部と勘違いしている。
「跡部ぇ、ようやく帰って来てくれたんやな」
 うっとりと微笑んで云う忍足に鳥肌を立てながら、宍戸は嘗てないほど、貞操の危機の局面に恐怖した。
「ままま待て、落ち着け。俺は跡部じゃねえ、宍戸だっつの!頼むから正気に戻ってくれ忍足」
 宍戸の必至の釈明も聞こえないようで、忍足はやはり焦点の合わない眼で愛しげに呟く。
「跡部、大好き」
 そしてそのまま宍戸に向かって屈み込んだ。その瞬間、
「おたすけ――――っっ!」
 哀れ宍戸の絶叫が校舎中に響き渡ったのである。




 そして四日後――――。
 いよいよ絶望的に病状が悪化している忍足が、それでも学校に来て、机の上に寝そべっていた。最早すでに彼の周辺には誰一人として近寄ろうとはしない。岳人でさえ、あまりの恐怖に半径二mは近付かなかった。忍足の周囲は、不気味なほどの沈黙が漂っている。
 と、その時、机にうつ伏せて微動だにしなかった忍足の身体が、びくり、と大きく動いた。それに驚いた岳人が固唾を呑んで見詰めていると、徐にむくりと忍足が起き上がる。
「……跡部の匂いがする」
 どこか亡羊とした口調で呟いていたが、次第に顔に生気が蘇えり、最近では見られなかった俊敏さで立ち上がった。
(「匂い」って何なんだ……)
 確かに今日は跡部がやって来る日ではある。しかし、その訪れを嗅覚で察知するとは。ここ数日でめっきり人を止めてしまった相棒を思って、岳人は遠い気持ちになった。
 そんな岳人を後目に、忍足は迷いのない機敏な動作で教室を出、跡部のクラスへと走って行ったのである。




 そして当の跡部は、自分に迫り来る危機にも気付かず、顔を見にやって来た慈郎と談笑していた。
「おみやげーおみやげー。ドぉイツ産のポッキー!」
 跡部から手渡された御菓子の山を幸せそうに抱えながら、慈郎は適当な自作の歌を唄う。跡部も、ふくふくとご機嫌な慈郎の様子に満足の笑みを浮かべている。慈郎は早速、包装を開けて最初の一口を堪能した。
「ん~、甘くて美味い!」
 ぽりぽりと食べる慈郎を、どこか動物を愛でるような眼で眺める跡部が、「よかったな」と云いつつ柔らかい猫毛頭を撫でる。その優しい感触に、慈郎も気持ち良さそうに眼を細め、
「ん~幸せ。でも跡部ぇ、撫でてくれるのは嬉しいんだけど、そろそろ逃げた方が良くない?」
 そんな慈郎の言葉に、跡部の手がぴたりと動きを止めた。
「なんでだ?」
 訝しげに眉間に皺を寄せる跡部に向かって、慈郎はのほほんと暢気な笑顔を向ける。
「きっとあと少しでモンスターが襲ってくるから」
「……はあ?」
 相変わらず慈郎の説明は独創的過ぎて少しも判らない。しかし、もっと詳しく聞きだそうと口を開いたあたりで俄かに廊下側が騒がしくなってきたことに気付いた。
「なんだ?」
「あー…遅かったか」
 訳が判らず首を捻る跡部の横で、慈郎は呟いて、気の毒そうに跡部を見た。
「慈郎?」
「跡部、無事に生きて戻ってきてね」
「さっきから何云ってんだお前……」
 慈郎の浮かべる哀れみの表情が判らないままに、どんどん騒がしくなる廊下を見詰めていると、盛大な音量で、
「跡部――――っっ!」
 という声が響いた。
「――…忍足?」
 跡部が、何やってんだあの馬鹿、と舌打ちをしたと同時に教室の扉が勢い良く開かれ、忍足が姿を表した。そして教室の窓際に居る跡部を発見すると、ぱっと表情が明るくなり、言葉にできぬほど幸せそうな顔をした。が、その忍足の様子に心底驚いたのは跡部である。何故なら十日振りに見る恋人の変貌があまりに凄かったからだ。表情は明るい。それはもう満面の笑みを浮かべて嬉しそうにこちらを見ている。しかし、顔色は悪い、眼は充血し、隈で落ち窪み、髪はどれくらい櫛を通していないんだ?と聞きたくなる程どうしようもなく乱れていた。
 そして何より、眼が少しも笑っていない。
 忍足の常ならぬ尋常な姿に、無意識に跡部の腰が引けた。
 まさか跡部が自分に恐怖を感じているとは露知らず、忍足は跡部に近付こうと、ゆらりと動き出した。
「跡部っ、逃げて!」
 忍足を見て固まり切った跡部は、慈郎の声に我に返り反射的に背後の窓を跳び越す。途端上がる悲鳴。跡部は窓下の足場に着地すると、忍足が現状認識する前に全力で窓伝いに走り出した。
「……なんで?なんで跡部逃げるんっ?」
 数瞬遅れて、忍足も我に返り跡部が逃げた方向へ追って走り出す。
 こうして、跡部のある種命を賭けた鬼ごっこが始まったのであった。
 跡部を追いかけるその時の忍足の様子は、まるで鬼のような形相であったと、その場に居た者達によって語り継がれることになる。




 怖かった。本当に心底、忍足が怖いと思った。
 たった十日ほど見なかっただけであれだけ変われるものだろうか?走りながら自問自答を繰り返す。
 階段を駆け上がり、踊り場に辿り着くと少し休憩も兼ねて乱れた息を整えた。
(ようやく巻いたか)
 呼吸も難しくなるほど走り過ぎて、じくじく痛む脇腹を抑えながら壁に寄り掛かる。が、丁度跡部がいる場所の真下から、
「あーとーべー」
 と、忍足の呼び声が聞こえてきた。
「!」
(化け物かあいつはっ!)
 恋人に恐怖映画ばりの云い知れぬ空恐ろしさを感じて、跡部は再び走り始める。口の中で、普段は信じない神に救いを求めながら。




 結局、跡部は逃げ切ることは出来なかった。それもそのはずで、どんなに体力自慢な跡部と云えども、とっくに人間を止めた忍足の、人知を超えた力に敵う訳がないのである。最終的には逃げ込もうとした生徒会室に跡部が先に踏み込み、鍵を掛けようとした所を捉えられた。そして、今は室内の奥の壁に追い込まれている。
(どうする、どうやってこいつから逃げられるよ?)
 絶体絶命の危機に、跡部は厭な汗を掻きながら忍足から眼を離せられずにいた。忍足はゆっくりと近付いて、自分に怯える跡部を見て少し哀しげに顔を歪める。
「なんでそんな怖がるん……?」
(怖がらせてんのはお前だろうがっ)
 率直にそう思うが、今の忍足には何を云っても通じないだろう。
 跡部は極度に緊張しながら忍足の出方を待っている。
 忍足はさらに跡部に近付いて、
「逃がさへんよ」
 嘯いて、跡部の恐怖を煽るようにことさら緩い動きで、跡部の両脇の壁に手を着いた。
「捕まえた」
 云って、邪気のない笑みを浮かべる。そしてそっと確かめるように跡部の身体を辿って、安堵の溜息を吐く。
「本物や……。夢やない、本物の跡部や……」
 忍足は、硬直する跡部の身体を抱き締めて跡部の首筋に顔を埋め、久しぶりに彼の香りを吸い込んだ。そうしてようやく安心したのか、顔を離すと益々深めた微笑を湛え、
「もう逃げんとってな?」
 と頑是無い子供のように呟いた。
作品名:Don’t Look At Me 作家名:桜井透子