ポーラ・スター
穏やかになってきた息を聞きながら、そっと手をとる。指先さえ熱い。その指先に口付けながら小さく呟いた。
「おまえは大丈夫だ…俺がいなくても…」
「やあ!遅いから来ないかと思ったぞ!!」
相変わらずの闊達な青年の言葉に、ギルベルトは顔を歪めて笑った。
「逃げやしねえよ。逃げたところでどうなるもんでもねえしな」
「まあね」と青年は笑って眼鏡をなおした。そして背後にいる他の者たちの顔を見回した。
「さ、じゃあ、準備は整ってるし、さっさと終わらしちゃおうじゃないか!」
「おい…」
アルフレッドの言葉に、フランシスが言葉を挟んだ。進行を妨げられてアルフレッドは不満そうな顔を浮かべたが「なんだい?」とフランシスに発言を諭す。
フランシスは、アルフレッドではなくギルベルトを見つめた。
何を言いたいのかは分かる。それなりに長い付き合いだからだ。だが余計な世話でもある。
フランシスは以前の姿は未だ取り戻してはいなかった。ヨーロッパ一の華やかさを誇った国。それを体現する男。だが、今は顔色も優れず、優雅な身のこなしも何処かぎこちなさがあった。
そんな男にまで同情されるとは。
ギルベルトは自嘲の笑みを浮かべた。
「人のことなんか構ってらんねえだろお前は。たく、相変わらず甘えんだよ!」
ギルベルトの悪態にフランシスは顔を顰めたが、藤色の瞳の暗さはきえず、ギルベルトは振り切るように叫んだ。
「さっさと済まそうぜ!てめえらも忙しい身だろうからよ!」
「oh!分かってるじゃないか!そうだ!こんなことはとっとと済ませて、先のことを考えるんだぞ!なあ、みんな!」
そう振り返ったアルフレッドに、一人は変らず笑みを浮かべ、後の二人は曖昧な表情をした。
「なんだい、ノリが悪いな〜」
「いいから早くしろよ」
手を振り、前に出るギルベルトの肩をフランシスが掴んだ。
「っギルベルト!本当にいいのか!」
血相代えたフランシスとは対称にギルベルトは静かな表情で、フランシスを見た。
「いいも何もねえだろ。これが世界で時代なんだよ。お前も精々気をつけな」
フランシスの力の抜けた腕を外させる。4人の真ん中。アルフレッドの目の前にギルベルトは立った。
「…まあ、心配してくれるってーんなら、弟のこと頼むわ……」
「…っ!」
アルフレッドは二人のやり取りを唇を尖らせて、詰らなさそうに見ていた。
そう、これが世界だ。
消える国になんか誰も興味はない。
だが、弟を。ルートヴィッヒを見てやってくれ。
今回は道を誤ったが、どんな国にも負けない国になるだろう。
自分が育て上げたのだから。
きっと。
目の前のアルフレッドがポケットから無造作に紙を引っ張り出した.
アーサーが眉を顰めて何か言っている。それを煩そうにアルフレッドが横目で見ながら。
しわくちゃの紙を広げた。
ギルベルトは空を見上げた。灰色の空が見える。青い空は見えなかった。少し残念に思う。もう一度あの青く透明な瞳を見たいと、今更ながらに思う自分が笑えた。
これでは、フランシスを甘いなどと言えない。
笑いながら、ゆっくりと瞳を閉じた。そうすれば、あの青い瞳が見える気がした。
幼い頃から自分だけを見つめる青い瞳。
アルフレッドの声が庁舎の殺風景な灰色の中庭に響き渡る。
「——連合国管理理事会法令四七号によりプロイセンの解体を宣言する——」
その声を聞きながら、ギルベルトは誰にも聞こえない程小さな声で呟いた。
「ルートヴィッヒ……永遠に、俺の唯一人の王……」
「————————……」
ギルベルトはおかしなことに気がついた。いつまでたっても意識も失われず。自分の存在を感じた。
ゆっくりと瞳を開く。
周りを見回すと。怪訝な表情のアーサーとフランシス。変らず笑っているイヴァンと、そして表情一つ変えていないアルフレッド。
「……どう…言うことだ…」
アルフレッドは大きく息と着いた。
「本当にできるとはね」
その言葉にギルベルトは動きを止めた。
「今回の戦争の責任。残虐な行いの責任は現ドイツにある。よってその責任は現ドイツが負うべき———!」
「まてっ!!どう言うことだ!?」
ギルベルトはアルフレッドの胸ぐらを摑み上げた。アーサーとフランシスが慌てて駆け寄ってくる。
「なんだか面白くなったね。けど僕は何も聞いてないよ」
イヴァンが笑顔のまま、だが、何処か冷たい声でアルフレッドに問いかけた。
そうだ意味が分からない!
何故消えない。
責任とは何だ。
「彼がいい出したんだぞ!」
彼?
誰だ?
分かっている気がする。だが分かりたくない。
現ドイツ——
現ドイツ!
ギルベルトは躯の異変に気がついた。急に躯が重く感じたのだ。息苦しさ、節々が重く痛み、躯中から熱を感じる。
まさか!?
ギルベルトは奔り出した。
庁舎を出ると停めてあったバイクに跨がり、奔り出す。
躯の異変は増々酷くなって行った。
嘘だ。嘘だと言ってくれ。
何度も唱えるが、異変は変らず。あろうことか別な変化までも現れ出した。
声が聞こえるのだ。
聞き覚えのある声。
声と思うが、多分これは思想だ。
ギルベルトの教えを忠実に護り、貫いて来た。誰よりも身近で。誰よりも愛おしい。
道を行く、馬車にトラック。総て抜き去り、家へと急ぐ。弟のいる家へ。
その間も総てが流れ込んで来た。痛み苦しみ、嘆き後悔。希望。そして願い。
家に辿り着くと、バイクを停めるのももどかしく、走るバイクから飛び降りた。倒れたバイクが横に滑り、言えを囲む垣根に突っ込んだが構っていられない。
鍵のかかっていない玄関を開け、最奥の部屋を目指す。
流れ込む思想が、自分の差悪の考えが当たっていることを示しているが、信じたくなかった。
最奥の扉にはすぐに辿り着いた。閉まった目の前の扉を開けようとして、掌が震えていることに気がついた。
否、駄目だ!そんな事があってはいけない!
あってたまるか!
震えを振り切るように、おもいっきり扉を開けた。
窓から差し込む日の光が、薄いカーテン越しに部屋を薄い黄色に染め上げていた。
その部屋の真ん中に見慣れた背中が。
濃い緑の軍服。よく見た姿。
その姿がゆっくりと振り返った。
一分の隙もなく、整えられた姿。
奇麗に撫で付けられ。今朝見た熱に苦しむ顔は、何処か晴れ晴れとした表情を浮かべ、ギルベルトを見ていた。
「兄さん」
ギルベルトは全身が震えてた。
莫迦な。莫迦な。
ルートヴィッヒはゆっくりと胸を撫でた。そこには揃いの鉄十字が掛かっている。それをゆっくりと撫で。
「着替えておいて良かった」
と微笑んだ。ルートヴィッヒの声に病床の弱々しさはない。それが恐ろしい。
逆にギルベルトの躯はどんどん熱を上げて、力が抜けそうだった。
だが、それも総て幻だと思いたい。
「すまない、兄さん」
ルートヴィッヒが寂しげに兄を呼んだ。
何を謝るのか。お前は何も悪くはない。
声が出なかった。喉が干上がったように乾涸びている。
声を出そうとしても、ヒューヒューと風の音がなるだけだった。
「兄さんの期待に応えられなかったばかりか、道を誤ってしまった…兄さんはあんなに尽くしてくれたのに…総てを台無しにしてしまった…すまない…すまない兄さん…」
やめてくれ!