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LOST CHILD

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 湧き水のほとりで騎鳥と別れてから数日になる。
 大海さえも易々と渡る自慢の愛鳥は、まだ卵の時分から大切に慈しんできたものだ。輝く羽根をばたつかせた愛し子は不安そうな声でクエ、と鳴き、主人に促されるまま薄暗い岩場を踏み越えていった。幾度も振り返り、見送る青年の様子を伺いながら。
「……さよなら。元気で」
 その姿が砂礫よりも小さくなったのを確認してから、クラウドは踵を返した。
 
 火成岩の積み重なった不安定な傾斜を半日も歩けば、ぽっかりと口を開けた断崖にたどり着く。
 記憶にある通りだ。
 クラウドはその果てしない淵を数秒ほど、じっと覗き込んでから、躊躇なく跳躍した。
 不規則に突き出している岩盤を蹴って落下速度を殺し、時折その反動に旋回を加えて方向を調節する。途中、岩肌に突き刺さっていた枯れ木が腕の皮膚を裂いた。クラウドは僅かに視線を向けただけでそれ以上は反応もせず、流れ出る血液と共にどこまでも落ちてゆく。
 常人ならばとうに意識を失っているであろう重力加速度を眉ひとつ動かさずにやり過ごす青年は、やがて谷底を見つめる目をすっと細めた。
 嵐のような空気抵抗の中、唇だけを動かして声なき詠唱をはじめる。
 嵌め込んだバングルに手を添えると重力のマテリアが閃光を発した。断崖を形成す鉱石と同じ、鮮やかな緑だ。岩をも砕く速度で地面へと叩きつけられる寸前にふわりと全身が包まれる。そしてスローモーションのように中空を半回転したクラウドは、大空洞の底へと降り立った。音もなく静かに。

 崩れかけた巨岩を峰打ちで砕きながら、見覚えのある洞窟へと向かう。
 極北の大地は、もとより草木ばかりか苔さえも滅多に根付かない未踏の区域だった。そして世界を呑み込んだ災厄の日も越えた今となっては、まさに死の淵となりクラウドの訪れを迎え入れている。
 階段状につらなる鍾乳石を越え、瘴気が立ちのぼる沼地へと行きあたる。以前この道を仲間たちと通った時には、道化のような魔物がしきりにエリクサーを寄越せと話しかけてきたものだが、その声もなかった。
 わずかに生えていた蔦は枯れきって塵芥の一部となり、かつては岩陰に巣食っていたモンスターさえ姿を見せない。完全なる静寂の支配する世界だ。
 ぬかるむ泥に足をとられながらも沼地を抜けた頃、遠く視界の先に何者かの気配を感じた。
 わずかな光も感じられない暗闇の中だが、魔晄の目にはその姿がおぼろげに映る。行く手をふさぐ巨岩すらも覆い隠すほどの体躯。折れ曲がった翼。そして腐臭が鼻をつく。
 屍龍だ。そう認識するよりも先に剣を構えていた。
 意識を集中させると、おぼろげだった視界は徐々にその形を変えてゆき、網膜にはターゲットの写像がはっきりと結ばれてゆく。
 かつて英雄と呼ばれた男も野獣のように夜目が効いたことを、クラウドは思い出していた。
 剣を八双に構え直しながら標的に向けて疾駆する。
 半ば透け見える頭蓋骨から吐き出された火炎を避けて踏み込み、一気に距離を詰める。咄嗟に獲物を見失ったのか屍龍の首がうねる。腐肉のただれ落ちるそれを、左側の付け根から斜めに斬り上げた。
 ぱっくりと開いた斬り口からは濁った粘体と腐臭が溢れ出る。
 それでも致命傷には足りないことを知っているクラウドは足元の瓦礫を蹴ってから右手にそびえる岸壁を経由していっそう高くまで身を踊らせ、さらに標的の上肢部を踏み割って高度を保ちながら屍龍の背後へと降り立つ。奇声をあげて振り回される尾を後方に跳んでかわし、その身をひるがえす遠心力を利用して、剥き出しの翼骨を根元から一撃のもとに斬り落とした。
 屍龍が絶叫をあげる。
 すでに骸と化して襲い掛かるだけの存在にも痛覚はあるのか、それとも怒りか。
 腐汁したたる巨体の背を二度三度と立て続けに斬りつける。身をよじってこちらを踏み潰さんとする下肢に向けてさらなる一閃を。その体躯ゆえの素早さに欠ける動きは、クラウドにとっては静止しているのも同然だ。
 荒い牙が覗く口腔にエネルギー波が集中してゆく、そう視認した直後、灼熱の嵐がクラウドに襲いかかった。一瞬ぐっと身を屈めたあと、全身のバネを最大限に使って天高くへと回避する。放物線を描きつつ滞空する間に、つい先ほどまでは足場だった花崗岩が赤黒いマグマとなって流れゆくさまを見た。
 着地と同時に片袖のケープをひるがえして熱波の残滓を払いのける。
「しぶといな」
 軸足をずらし、やや広めのスタンスをとったクラウドは愛剣を体側に引きつけて槍のように構えた。そして踵下の瓦礫を蹴る。振り降ろされた毒爪を幅広の刀身で弾き飛ばす。残った十メートルあまりの距離を跳躍によって一瞬のうちにゼロへと変える。
 片方だけ残った翼をゆらめかせ、最後のあがきをみせる巨体の中心に向けてクラウドはまっすぐに刃を突き立てた。柄までも届くほどに深々と埋めたあとは、そのまま手首を返して横薙ぎに切り裂く。
 断末魔の叫びをあげた龍の傷口から鈍色の霧が漏れ出し、周囲の空間が歪んでゆく。
「……シャドウフレアか!」
 咄嗟に剣を引き、左腕をかざした。バングルに嵌め込んだ宝玉が輝く。まばゆい閃光が視界のすべてを埋め尽くす。耳をつんざく爆発音。その明かりが徐々に引いてゆき、もとの暗闇にひとり呼吸を整えるクラウドは、彼にしては珍しく片膝をついていた。
 間一髪、リフレクで跳ね返したが至近ゆえのダメージは避けられない。
『油断だな』
「うるさい」
 聞き覚えのある声に噛み付いた。くっくっと喉を鳴らす笑い方もそのままに脳裏へと蘇る。
 クラウドは大剣を薙いで、刀身にこびりつく腐肉を払った。
「あんたは黙ってろ。……いつもいつも、余計なことばかりで」
 肝心なことは何も。
 そう続きそうな言葉の先を、クラウドは口にはしなかった。

作品名:LOST CHILD 作家名:ひより