LOST CHILD
最後の水で唇を湿らせた。
空になった皮袋を元通り腰ベルトに結わえ、クラウドはなおも歩き続ける。この先に水場があった記憶はない。もはや陽光など欠片も届かない暗闇の底辺すら越え、ほのかに魔晄の輝きが漏れ出ずるほどに深い、この大地の最奥部だ。
青年の足取りに迷いはなかった。彼の探し物はいまだ手にすること叶わず、その姿かたちは魔晄の視界にも映し出されてはいない。どこに在るのかさえ確証などまったくない。
だが分かるのだ。
湧き出ずる己の感覚のみに従ってクラウドは歩き続ける。それは大脳に集積した情報から導き出される推論でもなければ、海馬に刻まれた記憶でもなく、あやふやな皮膚感覚ですらない。
ただ細胞が知っている。自らの求めるもの、その在処を。
表面にライフストリームの結晶化した斜壁を滑り降りたクラウドは、左右に目線を巡らせた。奥へ奥へと進むにつれ、岩壁に遮られず見渡せる範囲が狭まってゆく。おぼろげだった魔晄の輝きがだんだんに強くなる。そのたびに青年は足を速めていった。自身にも理由の分からない、焦りにも似た感覚に、じりじりと追い立てられる。
どこか故郷の山を思わせる入り組んだ洞窟で、ひときわ強い光を発する縦穴を見つけた。
垂直にきらめく翡翠色のレイピアは実際に触れられそうなほど鮮明である代わりにひどく細く、その隙間を自由に出入りできるとしたら、せいぜいが野鼠くらいのものだろう。
近づきかけた青年は光源までの距離を数メートルほど残し、足を止めた。
僅かに眉を寄せる。
何もない地面を長靴の踵で二度ばかり蹴りつけ、その反響音を確かめたクラウドは、左腕のバングルに嵌めたものをひとつ外した。よく使い込まれた重力のマテリアを、大地を司るそれと入れ換える。
手のひらをかざし、クラウドは詠唱をはじめた。
砂粒がざわめき、やがて石たちが共鳴する。足元が小刻みに揺れだした。あと少し。
青年の眉間には皺が寄っていた。持てる魔力を一気に叩きつけるよりもずっと難しい。
効果のおよぶ範囲を慎重に調節しながら、局地的な地震を誘発する。
クラウドはかざしていた手をぐっと握りこみ、それを合図のようにして縦穴の周囲がみるみる崩れていった。ちょうど人間ひとりが滑りこめる大きさだ。それ以外には亀裂ひとつ入っていない。
先刻よりも数倍に広がり、光量を増した翡翠色の柱のほとりで、青年は膝をついた。あふれ出る輝きの向こうを覗き込み、しばらくはそうしたままだった。指先がわずかに震えている。
やがて立ち上がった青年は入れ換えたマテリアの配置を元に戻してから、光の中へと足を踏み出した。その姿が包まれて消える。重力のままに落下してゆく。
長い縦穴を抜けた先に広がるのは、結晶化した魔晄が網目のように張り巡らされた星の胎内だった。落下によるモメンタリでいくつもの結晶を折り砕きながらクラウドはそのひとつを梯子のように掴む。縦横に這うそれらを足場にして降り立ったあとは、ふたたび目的の場所に向かって歩き始めた。
踏みしめる結晶のはるか下方にはライフストリームが流れている。かつては自分を廃人にした濃密な魔晄の海だが、今のクラウドにとってはただの緩やかな水面にすぎない。
歩を進めるごとに心拍が速まっていくのは、そこへ落ちるかもしれない恐怖ゆえではなかった。
クラウドは震える息を吐く。まだ視界には何の変化もない。だが分かる。明らかに近づいている。自分の中に息づく細胞がそう知らせている。
やがて、ひときわ大きな結晶を見出したクラウドの脳裏にはかつての記憶が重なった。
――違う。
誰へともなく心に叫ぶ。これは自らの意思だと。
災厄を運ぶための人形として操られたわけではない。今度こそ、自らの意思でここへ来た。
一歩ずつ、ゆっくりと近づき、ついには触れられるほどの距離で足を止める。
どんな宝石よりも輝くエネルギーの結晶、その美しい棺を仰ぎ見る。
「……捜したよ、セフィロス」
推測した通りだった。
この星にとって異物であるセフィロスの思念はライフストリームに溶けない。ならばジェノバ細胞の分裂と増殖によって形作られた肉体も、やはりこの大地に還ることはないのだ。
いずれもが異物であることに変わりないのだから。
「セフィロス」
彼我を隔てる宝石に頬を押し当てたクラウドは、ふっと目を伏せた。
魔晄の結晶は地熱をおびているのか僅かにあたたかい。だがそれはクラウドの望むものではなかった。自分が捜し求めたのはそれよりもずっと低い、直接に肌を合わせてさえ血の気の感じられなかった男の体温だ。
「……五年なんてもう、とっくに経った」
長い沈黙の末にようやっと、クラウドはそれだけを呟いた。
「あんたは嘘つきだ」
語尾が震えている。自覚はあったが止められなかった。
マテリアの棺に眠る身体は幾筋かの太刀傷が残るほかは、生前と変わらず美しく保たれたままだ。男の死から長い長い月日が経過しているというのに、何ら変わりなく。その事実こそが圧倒的な重みをもってクラウドの胸を押しつぶす。
獣はどれほど飢えようとも彼の屍肉を食まず、腐敗をもたらす微生物さえ彼の遺骸に近づくことはない。誰もがその血肉を大地に還そうとしない。生命を分かち合わない。
この星に生きとし生ける、あらゆるものが。
「セフィロス」
ただ名を呼ぶほかには、他にかける言葉もない。
クラウドは己の認識に錯誤があったことを改めて思い知った。
彼がこの星にとって排除すべき敵となったのは、屋敷の地下で訪れた豹変のときではない。
嬰児として生まれ落ちた瞬間から、その運命はすでに決まっていたのだ。
世に災厄をもたらさんとする行動を起こそうが、起こすまいが。
忌まわしき異物として、永遠に排除され続ける。
涙がこぼれた。嗚咽すらなく、ただ頬を伝うままに流れ落ちる。
棺に眠る男は最期の姿をそのままに留めていた。かつて同じように魔晄の巨石に眠っていた時とは異なり四肢を損じていることはなく、剥き出しの胸板や肩には幾筋もの刀傷が刻まれている。
そのさまを見つめ、瞬きをするたびにクラウドの目から涙があふれた。今すぐに手を伸ばしたいと狂おしいまでに切望する。あの胸郭に穿たれた穴をふさぎ、断たれた血管を繋ぎなおしてやりたい。
無論それは他でもない自分が刻んだ傷だ。後悔はない。もしも時計の針が逆に回り、あの瞬間をやり直せるとしても、自分は間違いなく同じことをするだろう。
なのに何故これほどまでに矛盾したことを願うのか、クラウド自身にも分からなかった。
見つけられない理由の代わりに、涙だけが頬をつたう。結晶の表面を濡らしてゆく。
作品名:LOST CHILD 作家名:ひより