The Catcher in the Library
その間にもつうとよだれは重力に従ってバーテン服のベストを目指す。やばい間に合わない。
間一髪で東口五叉路で配っていたポケットティッシュ(ティッシュ配りを避ける技術を帝人はまだ知らない)を引っ張り出し、今まさに滴ろうとしていたよだれを受け止めた。
ほー…と息をつき、ティッシュを畳んでそのまま顎から唇まで拭う。
と、半開きだった口がぱくんと閉じた。
「あ、」
「んあ、?」
(やばい───!!!)
ぎぎぎと音がしそうなほどぎこちなく顔を上げると、平和島静雄はぼんやりと目を開けていた。
起こしてしまった…!!
「んあー…あぁ?」
平和島静雄はようやく閉じた口の脇で未だ固まっているティッシュと帝人の手に、不思議なものを見たように首を傾げる。
死んだ、これは死んだ。
ごめん正臣、かかわるなって言う君の忠告は正しかったよ…でもこんな珍しいもの見過ごせなかったんだ…
「あああああああの」
震える声で説明(というか言い訳というか)を試みると、平和島静雄はぼんやりした様子のまままた首を傾げた。
「あー…なんだっけ、お前、見たことあんだよな…」
「あ、へ? いやあの、…セルティさんの知り合いで」
予想外のコメントに帝人はしどろもどろに答えた。平和島静雄はああ、と少しばかりしゃっきりした顔で頷く。
「鍋か。鍋のときか。あー、そうだそうだ」
「あ、その節はどうも…」
他の奴に競り負けて野菜ばっか食ってた奴だ、そうだよな、うん、と平和島静雄は一人で納得している。そんなことまで思いださなくても。
「えーっと、ほら、アレだ、セルティに聞いたんだよ名前。なんか珍しいのがいると思って。で、名前が、えーっと、竜ヶ崎…」
「それは茨城の地名です」
「じゃあ霧ヶ峰だ」
「それはエアコンです」
あれ? と首を傾げる。ちょっとかわいい。若干緊張がほぐれた帝人は案外すんなり自分を取り戻した。
「竜ヶ峰です。来良の二年です」
ああその峰だその峰だ。平和島静雄は満足そうにうなずいている。
(どの峰だ)
密かに突っ込みを入れながら、帝人は内心安堵の溜め息を漏らしていた。このままさりげなく退場できるかもしれない。
「で、その竜ヶ峰がどうして俺の顔にティッシュくっつけてんだ」
「あ」
そうだった。
帝人の手はまだティッシュペーパーを持ったまま平和島静雄の頬の横で固まっていた。
「いいいいいやいやいやいやいや、あの! ですね! 他意は! なくって!」
「ないのか」
「すいませんもうちょっと静かにしてもらえないですか」
「ごめんなさい!」
「あ、すんません」
間に図書館員の迷惑そうな声を挟みつつ、帝人は力一杯手を振った。
何故だか一緒になって謝った平和島静雄は、ひょいと帝人の手をどけると、立ち上がって伸びをした。ぐうっと大きな背中が伸びる。なんだか猫みたいだと帝人は一瞬見とれた。
「あーよく寝た。…おい竜ヶ崎よ、」
「竜ヶ峰です」
「…峰よ、うるせえみたいだからとりあえず出ようや」
「あ、はいっ」
律儀に訂正する帝人をちらっと見下ろして一瞬微妙な顔をした平和島静雄だったが、ひょいと雑誌をつかむとふらふらと歩き出した。
後を追って図書館の外へ出ると、平和島静雄はエントランスの階段にどっかりと腰を下ろしたところだった。石段の高さが低いせいでいわゆるヤンキー座りにほぼ等しい。無駄に威圧感がある。
「あの…」
「あ? 突っ立ってねえで座れよ」
「あ、はいっ」
ぎろん、とこちらを睨む目が尋常じゃなく怖い。帝人は慌てて男の50センチほどあけた隣に座った。
「…まあいいけどよ」
平和島静雄ははああと深い溜め息をついた。
「俺の顔平気で触ってた奴が今さら怖がるかフツー」
「や、だってさっきは平和島さん寝てたし…」
呟くとまた睨む。ひいい、と息を呑むが、本人は至って普通に視線を戻す。もしかして睨んでるわけではないのかも。わけというかつもりというか。
そう分かってみると案外気が楽だ。尋常でなく目つきの悪い、怒っているわけではない(たぶん)男は胸ポケットからサングラスを取り出すとひょいとその目を覆ってしまう。尻のポケットから煙草とライターを出してくわえると、いつもの平和島静雄のできあがりだ。
そのいつもの平和島静雄はくわえ煙草で問いかけた。
「で、なんでまたお前は俺の顔触ってたんだ」
「あ、…その」
「あ?」
また睨む。しかも濁点付きの「あ?」。帝人は震え上がってまた10センチほど男から遠ざかった。
「あのな」
諦めたように平和島静雄は頭をかき回した。
離れてみるその横顔は苛立ったように見えるが、少しばかり寂しそうでもある。
(…悪いことしたかな)
帝人は何故だか罪悪感に苛まれた。
「…で、」
「あ、のですね。あの…」
促された帝人は事情を説明しようとして口ごもる。当然である。なかなか面と向かって「寝よだれくってたんで拭きました」とは言えない。
もごもご言う帝人に焦れた平和島静雄が少しばかり声を荒げた。
「おい!」
「寝よだれくってたんで拭きました!!」
(…言っちゃったーーー!!!)
ああああバカ。僕のバカ。なんで正直に言っちゃうんだバカ。舌噛んで死ね。
音を立てて血の気が引いていくのを感じながら、帝人はひきつった笑みで平和島静雄を見た。
平和島静雄はあの時のようにぽかんと口を半開きにして帝人を見つめていた。ぽろりと煙草が落ちる。スラックスの上に落ちて煙を上げ始めてもぴくりともしないので、帝人は慌てて男の膝の上の煙草を払った。
一拍置いて平和島静雄が口を開く。
「…まじでか」
「ま、まじです」
「うお、…そりゃなんつーか、ありがとう…?」
「どういたしまして…」
なんだこの会話。
「あー…」
平和島静雄が呻く。俯いたきんいろの頭をがしがしとかき回している。
「あの、」
思わず声をかけた帝人はその髪の間から覗く耳が真っ赤なのに気付いた。男はまだ唸っている。
(これは、)
つまり。
帝人は逡巡した挙句力強く言った。
「ええと、…誰にも言いませんから!」
「───…おう、頼むわ……」
平和島静雄は力なく答えた。
耳はまだ赤い。
真っ赤になって恥ずかしがる自動喧嘩人形という本邦最高峰に珍しいものを目にした帝人は、先ほどまでの恐怖も忘れて感動した。
「なんかその…悪かったな竜ヶ崎」
「竜ヶ峰ですが気にしないで下さい。そんな大したことしたわけじゃないですし、平和島さん疲れてたんですよね」
平和島静雄は打ちひしがれたようにうなだれたままぼそぼそと謝罪した。
「ちょっとな…いや疲れてたかっつったら疲れてたんだけどよ…ここ静かだからよ…まさか霧ヶ峰が来るとは…」
「竜ヶ峰ですがお疲れさまです。あの、よく来るんですか?」
「まあな…ここだと騒ぐ奴もいねえし。寝るにも本読むにもちょうどいいんだよ。クソボケノミ蟲も西口には滅多に来ねえし」
「あ、そうなんですか。いい場所ですね」
「おう…」
ずーんと沈んだままの平和島静雄との会話は意外に続く。
帝人はそのうなだれたきんいろの頭を見ながら思う。
よだれ垂らして寝てるとこ見られただけでこんなに落ち込むとは、意外とこの人も普通の人なんだなあ。
作品名:The Catcher in the Library 作家名:たかむらかずとし