ナイフと煙草と池袋
体が自由になれば臨也にも分はある。後から追いかけて
くる静雄との距離を確認しながら走るのはなかなか面倒なことだが、死と隣り合わせの感覚は楽しい。殺したくても殺せないもどかしさを抱えている様子を見ることも愉快でたまらない。
「待て臨也アアァァァッ!」
その絶叫に近い呼びかけに振り返って見れば、いつの間に、どのあたりから拝借したのか、『止まれ』という白地に赤の逆三角形の標識が静雄の手に握られている。無残にもねじり切られた跡を脚の方に残しながら。
そして丁度、それを静雄はやり投げのように投げた。臨也は咄嗟に身体を左に捻り、弾丸のように地面に水平に飛んでくる標識を交わす。酷い音が背後のコンクリートから聞こえた。さらに臨也は懐からナイフを一本取り出し、静雄の右目に向けて投げた。静雄はそれを眼前で、刃の部分を素手で握って止め、適当に捨て軽く踏みつけた。
「酷いなぁ、それ一本八千円するのに」
「知るかそんなもん」
二人は足を止めて対峙した。お互い息を切らし、肩で呼吸している。距離は詰めず互いに一定の間隔を測る。標識はコンクリートの壁に突き刺さるという状況に陥っていたが、いつものことなので二人は気にも留めない。暫らくして、再び走りだした。
静雄は道行く中で適当なものを見繕っては掴んで臨也に向けて投げた。ガードレールに自販機にポストにコンビニエンスストアのゴミ箱。通行人に被害が出ていないのは臨也が人通りの少ない道を選んで走っているためであった。わざと大通りに出て被害者を出すのも静雄を陥れる一つの手だが、自分が愛する人間に、静雄に対し恨み辛みもない人間に怪我をさせる気はあまりない。かといって袋小路に入って自滅する気はさらさらない。静雄が臨也を見失うまで、この闘争劇は続く。
「見逃す気はなさそうだねーシズちゃん」
「一ミクロンもねぇなぁ!」
静雄は臨也の後方十メートル以内に入った。臨也はスピードを少し上げ、前へ進む。
「じゃあこのまま池袋を範囲に追いかけっこしようか」
「上等だアァ!」
そう言って、静雄は足を止め、パチンコ屋の前にあった自販機を、固定器具をアスファルトから剥がしコンセントを引き抜き頭上に持ち上げる。自販機の重量は半端ないため僅かな時間が生じる。その隙間を使って、臨也はさらに距離を稼いだ。
「ッの・・・だあッ!」
投げられるものも直線的である以上はそれなりの反射神経が必要だが簡単によけられる。
「あっはは、シズちゃんノーコーン!」
「チッ!」
こめかみに青筋を立てて静雄は一つ舌打ちをし、再び走り始めた。
――― 今日はしつこいな・・・
静雄の発進に合わせ臨也も足を回す。しかしファーストフード店を出て僅かに間合いを測る時間以外休憩なしで走り続けていた。運動神経が普通の人間より良い臨也といえども、人間の限界は超えられない。走りっぱなしの状況に耐えきれなくなった身体はいたるところから悲鳴を上げ始めていた。
――― そろそろ本気で撒かないとまずいな
相手が相手であるため、撒く方法は限られてしまう。人混みに紛れるか、撥ねさせるか。その二つが臨也の頭にすぐに思い浮かんだ。
――― 大通りに出るか
しかしそれが仇となった。人混みに紛れようと、路地裏から大通りへ出る角を曲った瞬間一般人にぶつかりかけて背後への注意がそれてしまった。
衝突を避け、まずいと思った時には時すでに遅かった。
「イーザーヤーくーん」
臨也はあり得ない握力でもって静雄に肩を掴まれてしまった。そのまま視界は回転し、静雄と向き合う形で壁に叩きつけられた。
「ぐっ」
その衝撃に臨也は呻いた。走り続けたせいで息は完全に上がり、まともに抵抗できなかった。
――― 本ッ当、バカは頭と力だけにしてよね
首を絞められていないだけまだマシか。臨也は息を大きく吸い込んでは吐いて、深呼吸を繰り返した。
「ちょこまか逃げやがって」
「『手間掛けさせんな』って?やだなぁ、俺が逃げたのは当然だよ」
息苦しかったが、臨也はいつもの調子で言葉を作り出した。
「だってさ、いきなり腕を掴んできたのはシズちゃんの方でしょ?俺は正当防衛を働いただけだよ。対シズちゃんじゃ切り傷刺し傷程度じゃ過剰防衛にはならないだろうねぇ。で、追っかけてきたのもシズちゃんだしこれって完全シズちゃんが悪者だよねぇ」
「シズちゃんシズちゃんうるせぇな。俺は平和島静雄だっつってんだろーが!」
言い終わったと同時に飛んできた拳は臨也には当たらなかった。寸前のところで臨也は首を傾けて避けた。でなければ、顔が半分壁の中に持ってかれていた。ぱらりとコンクリートの屑が落ちた。しかし臨也の脳内はそれに対する恐怖よりもどうやってこの状況からから逃亡を図るかを練っていた。背後はコンクリートの壁、前方はコンクリートの比にならない平和島静雄。臨也は一つ思いついた。決死ではあるが、おそらく目の前が男であり人であるからには最も効果的だろうと思われる手段が一つ。
「じゃあ、静雄」
嫌味を込めて、アクセントをつけて臨也は静雄の名前を言った。静雄は突然名前を呼ばれたことに眉を一つ動かしただけだった。
「静雄にとびっきりの嫌がらせをしてあげよう」
臨也はいつもの嫌味を含んだ笑みで持って静雄の顔を見た。静雄は意に介さず、先ほど外した拳を再度当てるために構えた。
「俺にとっちゃテメェが存在すること自体が嫌がらせなん」
だ。そう言いきる前に静雄の言葉は途切れた。
静雄はサングラスの奥で、目を丸くした。文字通り目と鼻の先に臨也の顔があった。赤い双眸は笑っており、そして彼らの口同士の距離はゼロであった。
その距離が広がるまでに数秒を要した。
「い、いざ、・・・テメッ、はあッ?」
あまりの驚愕に、静雄は臨也からふらふらと離れた。一方の臨也はしてやったりといった余裕の表情で、その一瞬をついてまたしてもするりと身体をさばいて大通りへと走った。
「じゃあねーシズちゃん」
そう言い残して、今だ驚愕と呆然の中にいる静雄をそのままにして、臨也は駅へと走った。
数秒後、路地裏で静雄が大絶叫とともにビルの壁に大穴をあけたことがネット上のチャットで全国各地に広まったとかなんとか。