深淵
口ごたえできないそれが、当たりだといってるようなもので、かわいそうだが、これ以上は助け舟もだせねえな、と運転手も心の中で手をあわせた。
「そろそろ、着きます」
その、こんもりとした森のような場所が、目指した場所だった。
高い柵に囲まれ、うっそうとした木々が見えるだけで、奥にあるだろう建物さえ見えない。
どうにか潰さずに持ちこたえた花を抱えて子どもが先に降り立つと、黒い木々の間から醜い声をあげた鳥たちが飛び立つ。
嫌な感じだよ、とエドの気がめいる。
「大佐―」降りかけた男へ言いたいことがあった。
「―大将の、勘と洞察力を借りたかったって、ちゃんと言ってあげないと」
肩越しに眼を合わせた上司はふと笑った。
「褒めてのばさなければならないような部下を持った覚えはないが」
「でも、あれじゃあ」
「―本来、彼は出したくもなかったんだが、しかたあるまい」
また、機嫌を曲げたように、自分に言い訳するように、男は車から去って行った。
ほわり、というのが第一印象だったのだ・・・。
「エドワード君は、甘いものが嫌いかしら?」
「え、いや、その、食べてます、大丈夫です」何が大丈夫?自分でもよくわからないが、あせる。
そお?と首をかたむけるし仕種さえ、ほわり、としていた。
訪れたそこは門番のように兵士が立ち、男の到着を最敬礼でむかえた。
奥へと続く道は手入れもされていないような大きな木々の間にあり、全体的に薄暗い印象。
だが、その中にあった建物は真っ白なお屋敷で、その庭にあたるような限られた範囲だけが、手入れのされた植物で彩られていた。
ドアについたでかいノッカーを動かせば、いきなり、その女性が現れた。
「お待ちしておりましたわ。あら、そちらのかわいい方が、強力な助っ人なのね?」
軽やかで、高い声にさされた、『かわいい方』が自分だと気付くのに少々時間がかかった。どう反応してよいのかわからない。こういう女の人とはかかわったことがない。
「あ、えと」
「鋼の。君がせっかく用意したそれを、さしあげたらどうかね?」
「あ、はい」
まるで、従順な子どものように、言われたとおりにそれを差し出した。
「まあ、きれい」ありがとうとかがんで頬を寄せられると、花とは違う良い香りがした。
真っ赤になった子どもを脇におき、男は「おひさしぶりです」と微笑む。
「・・・ええ。ほんと。おひさしぶりだわ。お元気でした?」
女も微笑んで返す。
子どもは、どぎまぎしながらも、その空気を感じ取る。
なんか、変だ。
女が自然と子どもの肩へ手をおき、お茶の用意がしてあると奥へいざなう。
大きくて広い窓がついたそこにはお茶のセットと、甘い香りがする焼き菓子が置かれて客を待っていた。
女は天気の話をし、椅子に置いたままだった編みかけのそれを指し、父に靴下を編んでいますの、と聞いてもいないことに説明をする。カップに注いだお茶はどこだかのなんだかいう特産品で、ミルクをいれるとおいしいのだけれど、ごめんなさい、きれているのと困ったように首を傾けた。
「あ、これで、十分おいしいです」なぜかあわててそういう子へ、「素直にミルクは嫌いだといえばいいだろう?」と大人がにやけ、条件反射的にこどもが「あんたっ、」と言い返そうとした時だった。
「さすがですわね。部下の嗜好までもご存知なんて」
その、ふいにでた、あからさまな侮蔑のこもった言葉に、子どもは口を開いたまま目だけをめぐらせた。
ここにいるのは、この三人だけで、今の、とげとげの言葉は、向かいで静かにお茶を飲む女から出たものとしか思えない。
今度は近くの男へと目をやる。こちらも、静かにお茶に口をつけていた。
「いいお茶ですね」
「ええ。父が毎年取り寄せますの」
・・・まるで、今のことがなかったように大人二人はお茶を味わっている。
「・・・・」帰りたい・・・。
どうすることもできず、子どもは菓子に手をだした。
それを、ようやく一つ、お茶で流し終えたところで、男がようやく本題に入った。
「閣下のほうから、お話があったのですが」
「あら、復縁のお話かしら?」
「・・ご冗談がうまい。復縁もなにも、あなたとは縁がなかったはずですが」
「そうだったかしら?ああ、そうね。思い出した。恥をしのいでこちらから迫ったら、どこかの腰抜けが、とっとと逃げ出したんだったわ」
「・・・・おじょうさま。こう見えても、わたしにも節操というものがあるのですよ」
「へえ、意外だわ。それは何?どこの男の子どもを孕んでるのかわからないような女を押し付けられて、断ったことの理由かしら?」
「ニーナ。あのときに申し上げたはずです。違う男を愛している女に愛しているとせまられて、呑み込めるほどの器はないのですよ。」
がしゃん、とテーブルの陶器が踊った。女がそこを叩いているからだ。
「ちくしょう!会わすのが遅かったのよ!もう少し早く噂が立ってれば、あんたの子どもとして産めたのに、遅かったわ。・・・あなたに振られたっていう話が広まってしまったから、・・子どもも産めなかった」
「・・・・子どもの父親に、相談なさい、と申し上げたはずです」
「できないから父に頼んだんじゃない!なのに、あの人、遅いのよ!いっつもそう!」
編みかけだというそれを、つかんでむこうへ投げつけた。
「―まあ、いいわ。次を待つから。それに、今回は、違うことでいらっしゃったんでしょう?」
目の前で繰り広げられたそれに、存在を忘れられたような子は、瞬きも忘れていた。
女はまた、ほわりとした笑みを浮かべている。
さっきのは、なんだ?
「家宝が、なくなったと」
「ああ、そうなの。父はとても困っているわ。かわいそうなひと」
ふふふと笑う様子に、肌があわ立つ。
「それを、探すように、閣下にいいつかっております」
「そう。見つかるといいわね」
まるで、他人事だ。
「おじょうさまには、心当たりは?」
「あらいやだ。わたしをお疑い?我が家の家宝がなくなったのに?」
「このお屋敷の地下に、厳重に保管されていたというお話です。他に、誰が出入りします?」
「使用人が五、六人。あとは父。それぐらいかしら?」
女は首を傾げて微笑んだ。子どもと眼が合う。甘いものが嫌いかと聞かれて慌てる子どもの心理が痛いほどわかる男は、そこでお茶を飲み干した。
ようは、病気なのだ。
「感情の起伏がはげしい。本人に自覚はない。しかも、ここ数年それがひどくなり、父親が気付いたときには、子どもを宿していた」
「・・・子どもの父親は?」
「わかっていたら、わたしが直談判しに行ってもよかったくらいだ。閣下もその娘も、ただ腹の中の子の、父親と名乗る男がほしかっただけだ」
女は男にも、父親にも、相手の名を教えなかった。
断りを告げたときのあの軍人の顔は、ただの年寄りみたいだった。
「あの女の人の、母親は?」
「・・・噂だが、旦那の銃で自殺している。あくまで病死という発表だったが、閣下の奥方に会ったことがあるという人間には会ったことがない。きっと、彼女と同じような症状だったんだろう」