「我は何もしてやれぬ」
その日も雨が降っていた。
書ばかりがうずたかく積まれた半兵衛の部屋を、激しい雨音が却って普段よりも静かに思わせていた。雨の音しか聞こえないせいで、外の世界から切り離されてしまったように思えるのだ。
その上、部屋の中には半兵衛と大谷だけしかいなかった。本来なら一緒に来るはずだった三成の姿はない。秀吉に命じられ、用事ができた三成を置いて、大谷が一人で書を借り受けに来たのだ。
いつもなら三人の部屋に二人きり。それが妙に部屋を広く、静かに感じさせる。どうにも落ち着かない気分で大谷は頭を下げた。秀吉の命とはいえ、二人でおいでという言い付けを守れなかったのだ。詫びなければなるまい。
「申し訳ありませぬ。佐吉の分は、必ず我が届けます故に」
だが半兵衛は全く気にする風もなく、頭を下げる大谷の前に書を重ねる。あらかじめ何を渡すか選んでおいたらしい。
「気にしなくて良いよ。秀吉のお気に入りだけあって、佐吉も忙しいことだね」
それどころか、三成に土産まで持って行けという。
「城下で貰ったんだ。二人で分けてお食べよ」
白い手が籠ごと差し出したのは、良く熟れた枇杷であった。今朝もいだばかりであるらしく、産毛もまだ落ちていない。見るからにみずみずしく、旨そうな実だ。
「小姓衆全員に行き渡るほどはないから、君と佐吉でお食べ」
こういう風に、半兵衛が「二人だけに」と果物や菓子を寄越すのは珍しいことではなかった。小姓は沢山いるが、やはり半兵衛にとって大谷と三成は少し特別なのだろう。
しかし籠の中を覗けば結構な量だ。小姓部屋の全員で食べるには確かに足りないが、二人には少し多いようにも思う。これはどうしたものか。三成の顔を思い浮かべて、大谷は少々困惑した。
「それならば秀吉様と竹中様でお食べになっては」
そう訊いてもみたが、半兵衛はいらないよ首を振る。
「僕はもう秀吉と一緒に食べたから。それとも、君たちは枇杷は嫌いかい?」
「いえ、そんなことは」
「その割には困った顔をしているように見えるけどね」
半兵衛はくすりと笑うと、籠を大谷の届かぬ位置へと下げてしまった。一旦保留、ということらしい。
「だったら理由を話してくれるかい? 僕も別に、無理に押し付けたいわけじゃないからね」
半兵衛に退路を断たれるのを大谷は感じていた。正直に言えば、三成の損になるような理由があるのである。巧く誤魔化してやるつもりでいたのだが、目上の半兵衛の方が先回りして譲歩を提示してしまった。そこまでされてしまったら話さぬわけにはいかない。わきまえねばならぬ礼儀というものがある。
「……佐吉の食が細いのは、竹中様も御存知かと」
「うん、それはもちろん知っているよ」
大谷がおずおずと口を開くと、半兵衛は竜胆を思わせる整った顔に苦笑いを浮かべて頷いた。
「佐吉は食欲もあまりないようだし、食べ物に対する執着も極端に薄いんだろうね。なのに背ばかりひょろひょろと伸びてしまって、正直なところ少し心配だよ。あの歳ならもっと食べた方が良いのに」
大谷の答えなど予測のうち、という口ぶりだった。しかも半兵衛は、大谷も同じく虚弱で食が細いのも承知のはずだ。もしかしたら山盛りの枇杷など寄越したのも、これを吐かせるための策だったのかもしれない。
しまった、と思ったがもう後の祭りだ。そこで黙り込むこともできず、大谷はありのままを半兵衛に打ち明ける。
「はい、ですから竹中様に頂いたものもあまり口にせず……頂戴したことはありがたいと思っているようなのですが」
「食べないといっても、まさか後生大事にしまい込んでいるわけじゃないよね?」
「たいていは人にやってしまっております。ちょっと腹を空かせている者でも見かけると、竹中様からの賜り物だから大事に食えと言って……その、申し訳ございませぬ」
そこまで言うと、大谷は再び深く頭を下げた。
つまり三成は半兵衛からの好意の品を、むざむざ他人にやってしまっているのである。それを知ったら半兵衛が気を悪くするのではないか、三成をしかるのではないかと心配して頭を下げたのだ。
ところが半兵衛は、それも気にならないようだった。むしろ別のことを気にかけたようで、大谷にさらに問いかける。
「で、それを受け取った方はどんな様子だった? お前たちばかり贔屓されて、と怒ったり僻んだりしていたかい?」
「いえ……」
はてそう言えば、と大谷は首を捻る。そう言えば、そんなことを言われたことは一度もなかった。半兵衛の言うような負の感情が三成に向けられるのを、今までに見た覚えがない。
「いえ、竹中様からせっかく賜ったものを人に譲るとは器が広いと……城下で腹を空かせて泣いていた子供を見かけて、それに与えた時などは「まだ幼いのになんという慈悲心か」などと言われるほどで……」
大谷からすればおかしな話であった。三成は単に「いらないものだから」と放り出しているだけなのである。なのに周りはそうは見ない。なんと良い心がけだ、慈悲心だと揃って褒めそやすのである。奇妙なことだ。
しかし半兵衛は、それで納得したように何度も頷いた。
「やっぱり佐吉は、そういう星の下に生まれたんだね」
「そういう星、と言いますと?」
「天分、とでも言えばいいのかな」
半兵衛はそう言いながら、部屋の外へと目をやった。外は昼間、しかも激しい雨が降っていて、星どころか太陽すら見えない。だが半兵衛は遠く星空を眺めるような顔で三成の背負った宿命を語る。
「君も知るとおり、佐吉はあまり人当たりが良いとは言えないだろう? 思ったままを口にしてしまうから揉め事もしょっちゅうだし、他人と馴染もうという努力もしない。甘い言葉も低姿勢も物事を動かすための手段に過ぎないのに、そういう融通を利かせることができないんだ。つくづく損な性格をしていると思うよ」
「はあ、それは確かに我も思いますが……」
「でもね、佐吉はそれでも大丈夫なんだ」
稀にそういう風に生まれてくる子がいるんだよ、と半兵衛は語った。本人の努力でもない。周囲がそう育てたわけでもない。そういう星の元に生まれたとしか思えない人間が、と。
「佐吉自身が望まなくても、周りが勝手に佐吉を理解しようとする。自分の都合の良いように解釈して、勝手に祭り上げてしまう。あれはそういう子なんだよ」
言われてみれば確かにその通りだった。大谷と同じように黙って本を読んでいるだけでも、三成の場合は「寸暇を惜しんで勉学に励んでいる」と評価される。怠け者扱いの大谷とは大違いだ。
大谷と親しくし始めた頃、友人への陰口を耳にした三成が激怒したのは記憶に新しい。「貴様、大谷の悪口を言ったな」と、いきなり殴りかかってしまったのだ。
ところがその時ですら、三成への叱責は非常に軽かった。それどころか「友人思いの良い心がけだ」と褒められていたのを覚えている。
それが三成の天分なのだ、と半兵衛は言った。
作品名:「我は何もしてやれぬ」 作家名:からこ