「我は何もしてやれぬ」
「秀吉とも少し似ているよね。本人があまり語らない分、僕や周りがその隙間を埋めようとしてしまうんだよ。だから彼等の周りには、多くの者がついてくる。太陽や月は何も言わないけれど、ただ昇るだけでその光の下に人を集めてしまう。それと同じなんだ」
「月と、同じ」
「そう、同じなんだ。だからね、僕は佐吉の性格を気にはしていたけれど、心配はしていなかったんだよ。今は君以外の誰も近付けないようでも、あの子なら大丈夫だと思ってね」
半兵衛はそこで一旦、言葉を切った。暗い空に向けていた視線を降ろし、紫色の瞳で真っ直ぐに大谷を見つめる。
「でも紀之介。君はそうじゃない」
まるで断罪するかのような口調だった。
「いい機会だから話しておこう。残酷なことを言うようだけれど、このままでは君は駄目になってしまうよ」
「駄目……とは?」
「小姓部屋で一人きりだった頃のことを忘れたわけではないよね?」
忘れるわけがない。虚弱な身を嗤われ、蔑まれ、怠けていると妬まれて、突き刺さる針のような視線を気にすまいと、書を読むすふりをして俯いていた頃のことを。その「ふり」がやがて本当になり、書物を読むことの楽しみに目覚め、三成という友を得るまでの苦しさを。
あの苦界は未だ、大谷のすぐ傍らにある。またいつ転げ落ちてもおかしくないほどのすぐ近くに。そのことを半兵衛は案じていたのだ。
「君は佐吉とは違う。黙っていても周りが着いて来る佐吉と違って、君から働きかけなければならないんだ。そうでなければ、君はいつまで経っても今のままだよ」
「今のまま……」
「そう、今のまま。佐吉と二人きりの居心地の良い巣に閉じ篭ったままだ」
三成と大谷は、今は心地良い巣の中にいる。だが三成には、放っておいても外からたくさんの手が差し伸べられるだろう。たくさんの手が巣立ちを促し、高みに飛べと導き押し上げてくれる。
大谷はそうではない。誰も手など差し伸べない。自ら飛ぼうとしなければ、いつまで立っても巣の中から出られないのだ。
「僕は君の才を評価しているんだ。君の才はもっと多くの者に開かれ、認められるべきものだ。このまま埋もれさせてしまうには惜しい。僕はね。その為の最初の一歩を君に踏み出して欲しいんだよ」
半兵衛の言いたいことは大谷にも良くわかった。半兵衛は大谷や三成たち小姓衆の皆を、実の弟同然に大切にしてくれている。できれば全ての者が健やかに長じて欲しいと思っているのだ。
だから三成だけが飛び立つのを半兵衛は由としない。大谷を案じた三成が巣の中に残ってしまうのも駄目だ。二人は共に飛び立たなければならない。半兵衛は心からそう願ってくれている。
「君さえその気になれば、周囲はそう遠くないうちに君の才を認める。そうなれば、いずれ君自身を認めるものも増える。佐吉以外の友人も少しずつ増えていくだろう。世界は君の前に扉を開くだろう。だけど、その為の最初の一歩は、君自身が踏み出さなければならないんだ。まだ間に合うよ、紀之介。佐吉以外の者にも胸を開くんだ。それとも君は、佐吉だけがいればそれでいいのかい?」
真摯な問いかけだった。半兵衛がどれだけ己を案じてくれているか、それが大谷にも痛いほど伝わってくる。
なのに、と大谷の心は悲鳴を上げる。半兵衛の忠告はもっともだ。その通りだと思う。なのに頷けぬ。この方はこうまで我を案じてくださっているのに、わかりましたと頷くことがどうしてもできぬ。
「……構いませぬ」
畳に立てた爪が、がり、と音を立てた。
そうだ、構わない。三成がいれば他に何もいらぬ。誰もいらぬ。
半兵衛の言う通り、あれは月だ。愛想笑いをするわけでもない。我の耳に心地良い言葉を語るわけでもない。ただそこにあるだけで、人を惹きつけて止まない月のような男だ。
我も惹かれた。その光に惹かれた。あれだけでいい。あれだけがいればそれで良い。愚かなことだとわかっていても、そうとしか答えられぬのだ。
「我はそれで……構いませぬ」
「紀之介……!」
三度ひれ伏した大谷の選択に、半兵衛が息を呑む気配があった。雨音に包まれた部屋に沈黙が落ちる。
長い沈黙だった。大谷も伏したまま動けない。半兵衛の怒りは覚悟している。これほどまでに案じてくれたというのに、大谷はそれを無碍にしてしまったのだ。激怒されたとしもおかしくはない。
だが再び大谷の上に降ってきた半兵衛の声は、怒るどころか奇妙なほどに落ち着いていた。
「君は、佐吉だけでいいのかい?」
「……構いませぬ」
「彼だけがいれば、他には何もいらないのかい?」
「いりませぬ」
「お止めよ紀之介。それは楽な生き方ではないよ。君が選ぼうとしているのは、ただ一人の為だけに全てを捧げる生き方だ。一見綺麗な生き方に見えるけれどね、それがどれだけ苦しいことか……僕は誰よりもよく知っている」
良く知っている、と言う声音の苦しさに、大谷ははっとして顔を上げた。
普段は仮面で隠されている眉間のあたりを押さえ、半兵衛は瞑目している。寄せた眉がいかにも苦しげで、半兵衛の抱えているものの重さがちらりと覗けた気がした。
「だから言うよ。紀之介、僕は君にこの道を選んで欲しくないんだ」
「しかし竹中様、我は……」
それでも、大谷の答えは揺るがない。
「我は他に、選べませぬ……!」
「……そうか」
そこでとうとう半兵衛の手が上がった。ついに殴られるか、と大谷は身を硬くする。
しかし、そこにふわりと降りた半兵衛の手は、驚くほど柔らかだった。
「君はもう、決めてしまったんだね」
柔らかな手が、子供にするように何度も大谷の頭を撫でる。
「では僕はもう、何も言うまいよ」
実の弟を慈しむ兄のように、柔らかく、優しく。
「強くおなり、紀之介」
言い聞かせる声も、限りなく優しい。
「強くなって、佐吉を支えておやり。全ての苦しみから佐吉を守っておやり。君はそうするしかない道を選んでしまったのだから」
「……竹中様」
「佐吉がいつも笑っていられるように、強くおなり。そうすれば、きっと君も笑っていられるから」
大谷はそれに答えられなかった。何かがこみ上げてきて、喉のあたりが詰まってしまったのだ。
だから、ただただ頭を下げた。半兵衛の気遣いを無にしてしまったことを詫びたかったのか、そこまで想ってくれたことへの礼を述べたかったのか。今となってはもうわからない。何度も頭を下げながら、この知将が告げたことの本当の重さを、懸命に理解しようとしていたようにも思う。
だがそれを大谷が理解できたのは、それから十年近くも経った後――半兵衛が既に斃れた後であった。
作品名:「我は何もしてやれぬ」 作家名:からこ