嬉しいと悲しいの間に
二ヶ月経っても、ルークの記憶は戻らなかった。どうして俺がこんな面倒をみてやらなくてはいけないのかという想いは深まるだけだった。いつか殺すと思っている少年の、手を引きながら歩く練習をして、まずは何よりも言葉だとその名前を何度も繰り返して呼ぶ。そんな馬鹿馬鹿しい話もなかなかない。愚かしいと思いながら、頭の中はまた違う疑問でいっぱいだった。言葉を覚えたら次は文字か? 貴族としての立ち居振る舞いはどうする? 元々の家庭教師はどこへ行ったんだ? 公爵はどうして何も言ってこないのか。使用人でしかも年もそう変わらない俺が、息子の再教育(としか言いようがない)をしていることは知っているはずだ。外聞が悪いのはわかる。いくらルークが大人に怯えるからって、ほぼ全て俺に任せっぱなしなのはおかしい。貴族に生まれたからにはこうあるべしという気位の高い男が、そうそう感情を前面に押し出すはずがなくても、ルークの部屋を訪れることさえない公爵に違和感を覚えるだけだった。公爵の息子への情の有無を俺は何度も疑った。
そうするうちにラムダスを通じて、警護のためルークを屋敷から外に出さないようという命が、公爵からあった。まだ屋敷の外にさえ出ていないルークに何とも気の早い話だとは思った。ただその過剰ともいえる達しからも、あの男が公爵家の跡取りを何を置いても必要としているのは察せた。誘拐された時の取り乱した姿も確かで、父子としてのわかりやすい情のあるなしはどうだっていいと思った。
作品名:嬉しいと悲しいの間に 作家名:鼻水太郎