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立石良則という男

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その背中を最後まで見送って、わたしはタエさんにしがみ付いた。
タエさんは驚いたようにわたしを見て、わたしは無理ですと首を横に振った。


「駄目です、駄目ですってば・・・!」
「まあまあ何が駄目なんですか?私にはさっぱり分かりませんよ」
「だって・・・だってなんだか、なんだか駄目なんです・・・」
「あなたが旦那様を嫌ってどうするのです?」
「違うんです、嫌いじゃないんです。嫌いなんかじゃないんです・・・」


ただ、上手く言えないけれど、あの人は駄目だ、と思った。




立石さまが帰宅されるほんの少し前、わたしはタエさんから立石さまがわたしを養女に入れたと聞いた。
ただの居候だと思っていたのに、途端に養女というまさに寝耳に水ということに心底驚いて何も言えずに呆気に取られたわたしに、タエさんは「もしも旦那さまに何かあった時、あなたに何か残してやろうというお気持ちになられたそうですから」とだけ言った。だったら、あの人はわたしの父親になってしまったという事になる。だけれど違う。わからない。わからないけれど、あの人は他の人とはきっと違う。父親だなんて、そんなこと、絶対に言えない。




お料理のお支度をするタエさんの後ろをちょこまかとくっついて、どうしようか、と不安になる胸がはち切れそうになってしまう。わたしは、あの人をなんで呼べば良いのだろうか。「立石さま」ではいかない。だってわたしも立石さまになってしまったのだから。だったら戸籍の上で父上となってしまったあの人を、わたしは「お父さま」とでもお呼びすれば良いのだろうか。でも、なんだかわたしはあの人のことを「お父さま」とは呼べないような気がしてしまった。
なんだか、思い描いていた軍人さんに対する怖い、ではない。
別の怖いがじわじわと広がり、胸の中を多い尽くしてしまい、わたしは戸惑う。



あの人が、怖い。





ぎゅうっとタエさんの着物の端を握っていたわたしを、タエさんは迷惑そうに追い立てて、旦那さまにお酌のひとつもしてやりなさい、と囁いた。もう逃げる事も叶わなくなってしまい、わたしは恐る恐るその人の隣に腰を降ろして、お酌をさせてください、と呟いた。しかし、その人は「俺は好きなように手酌で飲む」とにやりと笑って言い放ち、好き勝手に杯にお酒を注いでしまう。するともうどうして良いのかわからず、わたしは自分の手元を見たり、タエさんに助けを求めるよう目線を送ってみたり、どうにもならなくなって縮こまってしまう。ああ、消えてしまいたい。


「俺の書斎に文鎮を置いたのはお前か?」


一瞬だけ何のことだか分からず、でもそれがすぐにあの文鎮のことだと気がついてわたしは、はい、と顔を上げて頷く。きっと何かを乞うような、そんな哀れっぽい顔をしているに違いないとわかってしまったけれど、気持ちはとまらずその言葉の続きを待った。けれどその人は何も言ってはくれずにちびりちびりとお酒を飲み、お料理にお箸を伸ばして黙り込んでしまう。文鎮を気に入ってくださっただろうか。余計なことを、と思っただろうか。いいや、そもそもわたしが家にいる事を許してくださっているのだろうか。

またたまらない不安がじゅんじゅんと濡れたように広がって、わたしは手を握って俯いてしまう。
いつだってわたしは不安でたまらない。色んな家も、最初は自分の家だと思って寛ぎなさいと言ってくれたけれど、しばらくするとやはりわたしという余計なものに隔てが表れる。家族じゃなくても良い。下女として働いて、それで家に置いてもらえれば、と思うけれどもそうすると今度は彼らの居心地が悪くなるようで、家族という家の流れの中に唐突に投げ込まれたわたしという大きなわだかまりがやがて大きくなっていってしまう。

また次の家にやられるのだろうか。
だけど、この人に捨てられてしまえばもうどうしようもなく惨めで堪らない気持ちになるような気がした。


「おい」
「はい」
「俺の書斎の第二種・・・白い軍服のポケットに入っている布袋を取ってこい」


それが救いの言葉のように、わたしは返事をして立ち上がり、慌しく部屋を駆けていって、あの人の書斎へと飛び込む。すると遠巻きにしか見たことのなかったような白い海軍さんの軍服が、さっきまであの人が着ていた眩しいような軍服がそこに掛けられていて、わたしは急いでポケットに手を入れる。さらさらとするような肌触りの軍服のポケットから出てきた布袋にほっと安堵して、またわたしは急いであの人の元へと帰ってそれを差し出した。するとそれを無造作に受け取り、中からハンカチを取り出したと思えばそれをわたしの手の上に乗せた。洗ってこいという事だろうか、とハンカチとその人を見比べたわたしに、かまわずお酒を煽りながら、杯越しにその目がにやりと細められるように笑う。


「お前に土産だ」


えっ、と驚いて手に握りしめればハンカチの中に何かがあるのに気がつき、慌ててハンカチをあけてみれば、そこにあったのは見た事もないような桃色の簪だった。

きれい、と思わず呟いてそれを日の光に透かしてみれば、つやつやと光る桃色の、珊瑚細工の簪。まあるい桃色の珊瑚が日の光を受けて輝き、それを見ていたらふいにぼろぼろと涙が溢れた。この家に着てから一度だって泣いた事なんてなかったのに、わたしは嗚咽も出ずにぼろぼろと溢れた涙をどうして良いのか分からず、ありがとうございます、とすみません、を繰り返す。するとふいにその腕がぬっと伸びて、わたしの肩を攫ったかと思えば、その胸に押し付けられるように抱き寄せられ、すぐ頭上に男の人の顔があるということに息を呑んで戸惑うわたしの手からするりと簪を取って、わたしの髪へと刺した。


するともう突き放すようにしてわたしを放り出したその人の目が、満足したように細められ、わたしは自分がもう逃げられないという事を悟った。


そしてわたしの心を奪ってしまった。








それからわたし宛に、珍しい帯止めや帝都の娘がつけるという化粧水や白粉や簪や珍しく貴重な砂糖菓子がいくつもいくつも送られてくるようになった。最初は「急に若い娘さんの父親になったのだから、何かしてやりたいのでしょう」と言っていたタエさんだったけれど、紅まで送られてくるようになるといよいよその表情が曇った。わたしは何度もお礼と近況を知らせる手紙を出したけれど、返事は一度も帰ってこない。それでもまた何かが届き、わたしも流石に戸惑った。


これは、一体どういう意味の品なんだろうか?


あの人のことを考えるとき「父親」という言葉を思い返すとなにか歪なものを感じる。
親ではなく戸籍の父なのだから、本能として父だと思えなくとも、他の養子の子や、再婚した子達は新しい父親をそれでもなんだかんだと「父親」と思ってしまうようだけれど、わたしにはそんなものはまるで感じられない。


ただ、いつもなんとなく怖いような気持ちでいる。

作品名:立石良則という男 作家名:山田