立石良則という男
その目に射抜かれると自分の全てを曝け出してしまうような、いや見抜かれているような気持ちになって、わたしはいつもよりもっとおずおずと自信のない子供になってしまう。怖くてたまらない。なにか、それだけで済まないような気がしてしまう。とんでもない事になった、と思う気持ちが強くなっていく。ともすれば檻にでも入ってしまったようで、しかし事実わたしはわたしという個人よりもあの人の一言に動かされるのだから、それはあながち間違いでもないのだろう。
けれども、あの人から送られた化粧道具に手をつけてしまうと、それはもう“あの人のもの”になってしまような気がして、わたしは、――――――怖かった。
しかし、そんな折にタエさんが唐突にお役御免となってしまった。
何も言わずに荷物をまとめ始めたタエさんの両腕を掴んで、どうして、と狼狽するわたしにタエさんは少しも動揺した様子もみせず、出過ぎたことをしたからです、と目を伏せた。それがどういう事か分からず、わたしはあの人に手紙を書いて思い直してくれるよう頼むから、とタエさんを何日も家に引きとめたけれど、二週間経っても返事が帰ってこず、そのうちに後任だという新しい女中さんがやってきて、いよいよタエさんは荷物をまとめて出て行ってしまった。
わたしは母親のように慕ったタエさんを突然目の前で奪われるような衝撃に泣き崩れ、タエさんはわたしの肩口を握り締めて、わたしの目を覗き込むようにして言い含めた。
「旦那さまは、あなたのお父上なのです。それを決して忘れてはいけない。でなければ畜生と同じことになってしまうから」
タエさんの言葉の意味が深くは分からなかったけれど、わたしの中のやましい部分を言い当てられたようなギクリとした言葉に息を呑むわたしを抱き締め、タエさんは親類だという女の人と一緒に行ってしまった。
わたしはタエさんの言葉の意味を考えた。
考えたけれども何もわからず、ただ与えられた品々を目の前に並べて途方に暮れた。新しい女中さんとなった千代さんは何のことも興味もない様子で、ただ淡々と家や草木の手入れをして、料理を作って後は寝てしまうだけ。タエさんのようにわたしを叱ってくれたり物事を教えてくれたり一緒にお茶を飲んだりすることもなく、そういった千代さんの様子にまたわたしは物足りなさとさみしさを覚えて、このさみしさを埋めてくれるような誰かを探してしまう。じゅんじゅんと濡れたように、またあの心細さが込み上げる。
するとそっとあの人の部屋にはいって、そこでずっと座り込んで、何かあたたかい人の輪郭でもかき集めようとするけれど、そこはしかしあの人の部屋。父親だけれど、父親ではないような人。ふいに“飼い主”という言葉が思い浮かび、父親よりもぴったりと当てはまるような言葉の響きにわたしは眉を寄せた。
そんな時に、あの人が帰ってくるという事を聞いた。
軍から知らせを受けてすぐに家々をよりきれいに磨き、布団を日干しして、お酒や野菜を買ってきた。
それらをすっかり料理して、待っていた夕暮れ、あの人は帰ってきた。前と同じ白く眩しい軍服を着ていたけれど、わたしはなんだかその顔を見上げることができないでついついうつむきがちでいたけれど、その人は何も気にしないといった様子でお酒を求め、小鉢に簡単に料理を載せて運び込んだわたしの前に空の杯を差し出した。お酒は好きに飲むんじゃなかったんだろうか、と思いながら隣に座ってお酒を注ぐ。
「いくつになった?」
「今年で十八になります」
そうか、と興味もないように答えて帝都の戦勝ムードをいくらか皮肉ってから、ふいにわたしの顎に手を伸ばして顔を上げさせた。顎を掴まれては逃げることもできなくて、やめてください、と払いのけられるはずの腕の存在もすっかり忘れてしまったように、わたしはその目に射抜かれる。
「お前は白粉ひとつつけられないのか?」
え、と思う間もなくその手が土産の紅の蓋を器用に片手であけて、薬指に少しつけた紅をわたしの唇へと走らせた。
決してつけないと思っていた、この人からの女の品を、この人の手ずからつけられてしまった。
そのまま押し倒されたわたしが、一体どうして逃れられたというのか。
何もかもを奪われて、わたしは女になってしまった。
そしてようやくタエさんの言葉の意味を知った。
―――――畜生とは、こういう事なのだ。
もうわたしは躊躇うことなく送られた女のものをつけるようになった。
それからあの人がわたしを「ふみ」と呼ぶようになり、わたしはあの人を「良則さん」と呼ぶようになった。
畜生になってしまったからには、父上だなんて舌が裂けても呼ぶことなんてできない。それこそいよいよ畜生のことで、わたしはその畜生のことから逃れるように、けれども夫ではないわたしの男をそれでも「良則さん」と呼んだ。そう呼ぶより他には何もなかった。良則さんはそんな事もまるで気にしないようにわたしを「ふみ」と呼び、そしてまた異国の珍しい品や、時には沈めた敵国の船の板切れなどを見せて戦況を細かに語り、その血生臭い話に青い顔をするわたしを見ながら心底楽しいような目をして笑う。そして養父の腕の中で喘ぎながら、もう自分が以前の何も知らない娘に戻れなくなってしまったことに胸を痛め、それから逃れるようにまたその背中に腕を伸ばしてしがみ付いた。しがみ付いていなければ、するりと消えてしまいそうな希薄な関係の中でわたしは良則さんだけを頼りにするように救いを求めるようにその背中に腕を伸ばしてしがみ付いていた。
本当の父親ではないのだから、と心の中で祈るように叫びながら、それでも良則さんがわたしの鎖骨に手を置いて自嘲するように目を細めるとき、わたしは泣き出したいような気持ちになった。
でも本当の父親では、ないのだから――・・・
またしばらくの遠征が続き、「帰る」という言葉にわたしは自分がどれだけ寂しく、どれだけ心細く良則さんを待っていたのかを知る。部屋を隅々まで綺麗にして、良則さんに与えられた異国の香油をそっと肌に馴染ませて、わたしはその帰りを待った。心待ちにした。
そして待ちくたびれて死んでしまうのではないか、と不安が爆発しそうになった夕暮れ、良則さんは帰ってきた。
無事の帰還を喜ぶ言葉を述べているときに、ふっとその後ろにもう一人白い軍服を着た人が立っている事に気がつき慌てて口を噤む。良則さんは気にしないが、それでもわたしは国のためには“無事の帰還”という事を喜んではいけないのだ、という事を思い出して慌てて息を呑む。良則さんがお客を連れて帰ってくることなど知らずにいた事もあっておずおずと頭を下げた。良則さんはそんなわたしに構わず、酒を持ってくるようにだけ言いつけてさっさと客間へと引き上げていった。