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立石良則という男

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ただ俺は腹の底で早く大人になり、あの家をどうにかしてやろうと思っていただけですよ。・・・・・・だからそれが誤解だって言っているんですよ。どうして俺があの腐敗しきった抜け殻の家名を立て直してやらなくっちゃいけないんです?俺が考えていたのはそういう善意や正義感、道徳といった物とは真逆のものですよ。


俺は、あの家を手に入れたならば全てを破滅させてやろうと思っていた。
子供は寝る前に何か勇ましいことや楽しいことを考えて寝るのだと、誰かが言っていましたが、俺にとってのそれは破滅でした。その頃になれば社会というものがあの家の中だけのものではないという事くらいは薄々気づいていましたから、まずはその、俺にとっての最初の社会をぶち壊してやろうと思っただけのこと。八つ当たりかもしれない。青臭い復讐心かもしれない。いや、ある意味では無理心中させてやろうというような薄暗い欲望です。・・・・・・さぁ、そんなものはどういう心理のものなのでしょうね。俺は専門でないから分かりませんよ。

ただ、哀れにも小さな家の名にしがみ付いている人間に残酷な事実を突きつけてやりたかっただけですよ。






しかしすっかり腑抜けたと思っていた男が、新しい妾を作っていたらしい。
いや、妾なんてものじゃない。ただ使用人の女に手を付けただけのこと。そしてその女が身ごもり、内々で子供を産んだ。



それが男児だった。




ほら、展開は読めたでしょう?そう、あっという間に俺はお役御免です。
・・・・・・さぁ、どういう訳があったのか、今となっちゃ知りませんよ。まあ大方親戚連中が何か吹き込んだりしたのでしょう。お前はもう跡継ぎではない、と“家族”全員集まった夕餉の場で言われたときは頭をガツンと殴られたような気もしましたし、呆けたような気もしますが、男はそれだけ言ってしまうとさっさと飯をかっくらい、姉や妹たちはクスクスと笑いながらまだ目も開かぬ乳児の頬をつつきまわし、それまで俺を「坊ちゃん」と媚びるように呼んでいたその使用人の女は正室気取りで胸を張り、表情を輝かせて己の上り詰めた座と幸福を噛み締めもう誰の目にも俺が映っていない事は明らかだった。



そんな折に出会った女がいました。俺が十五の時でした。
・・・・・・・・恋愛事?そんな話だったら良いんですけどね。突き詰めればする事は同じでしょうから、そう言ってしまっても良いかもしれないが、しかしやはりそういうものではありませんよ。使用人のひとり、三十を過ぎた女、それが俺が初めて抱いた女です。屋敷の蔵の中で抱いた。・・・・・・さあ、なにが理由だったかはもう忘れてしまいましたが、女の腕のむっちりと肉のついた様子や肌触りが、母だった美しい女とはまるで違うことだけに驚いたような気がしますよ。それはともかく、その女が俺に囁いたんですよ。



「坊ちゃん、もうこんな家は捨てておしまいになって、坊ちゃんは兵学校へ進まれるが良いのよ」



俺は心底驚いた。腹の内を読まれたような気がしたもんですからね。
俺は軍人になる気でいた。女に腹の内を読まれたというより、屋敷では皆それを知っていたらしい。きっと俺が家を捨て軍へと入るだろう、と。このまま嫌味で家に残ってぶらぶらと隠居のようなことをして、女を集め、私財を食い散らかすような道もあっただろうが、おれの性じゃないし、しかしどうせ戦争が始められれば男は狩り出されるという事くらいは知っていた。しかも同じ軍人だとしても、兵学校卒とただの招集兵では雲泥の差がある。どうせ集められ死ぬんだから、好きにやりたいじゃありませんか。兵学校へ行くと伝えたとき、男は何も言いませんでしたよ。


そうして俺は試験をパスして兵学校に入りました。


そこからは貴方と似たような兵学校生活ですよ。
兵学校の生徒ならば皆同じ青春でしょう。だから言うことなんてありませんよ。俺の挙げた戦果程度のことは貴方でも知っているでしょうからこれも良い。とにかく、俺は大日本帝国海軍の少佐にまではなった。駆逐艦も任され、大まか好きなようにやっている。まあ、悪くない。おっと、今のは失言ですね。上には黙っておいてくださいよ。近頃秘密警察ってやつが軍にまで入り込んできやがるんでね。







それで、家が潰れたと聞いたのは先月のことでした。



兵学校を出て軍に配属されてから一度たりとも顔を見せたことなんてありませんでしたよ。・・・・薄情?おや、さっきは気丈だなんて言ってませんでしたか?ふ、そうです、俺はそういう薄情な男だ。その薄情な俺は、姉のひとりが嫁ぎ先で受けた空襲で死んだことも、妹が女学校も卒業せぬうちに男に振られたとかで自殺したことも、“正室”になった女が、財産を食い潰したことも、この物資を軍に規制される社会に対応できずに商家なんてあっさりと落ちぶれたことも、なんにも知りやしませんでしたよ。いや、聞いても何も思わなかった。



いや、何も思わないでもなかった――――・・・・・・





この話をしたのはあの男、父でした。
どこで調べてきたのか、横須賀の俺の私邸にまでやってきましてね、女中が勝手口を開けるなり玄関先の土間に頭を押し付けて俺の名前を呼ぶんですよ。流石に五月蝿いと男を見下ろす俺の顔を見もせず、男はいかにも哀れっぽい声で哀れっぽい事を話した。見下ろした男の肩の、背中の小ささ。俺は哀れに思った。




そうだ。この男は始めからそう間違っていたわけでもない。



ただ不幸だっただけだ。そして俺も始めからそうこの男を憎んでいたわけでもない。今の俺があるのは、金の面でも、そもそもこの社会に産み落とされたという意味でもこの男がいたからだ。だが俺は男が不愉快だった。男は間違っていない。ならば「情けを掛けてくれ」などと惨めったらしく言わずとも、俺に「今まで掛かった費用を払え」と命令するだけのことをしてくれればよかった。冷たい土間に頭をこすりつけ続ける老人の背中を眺めながら、俺は突然に忘れていた様々な事を突きつけられたような気がして頭が痛くなった。認めたくないものを目の前にしたような気分でした。事実そうです。
子供の時分の俺は、この老人を父親だと認めたくないような気分になっていましたが、その瞬間の俺は老人を父親だ、と奇妙に実感したのです。全くの初めてのことです。



俺とこの老人、いや、父親とは、美しい女を失った同じ肉親という点で分かり合えたのかもしれなかった。



そして俺は老人に、老人と、その女とが生活できるだけの金を月々振り込んでやると約束しました。父親は何度も俺の手を取って頭を下げて出ていきました。見送った父親の背中がひっそりとしていた。あの背中にしがみ付いて遊びを強請る過去もあったのかもしれないとふと思いましたが、そんな事はもう意味のないことでした。



その晩父は死んだそうです。
俺から金が入るという事を知らぬ女が父親を刺し殺し、自分も刺したのだろうという事です。






そうして俺はまた一人になりました。
まあ、こんなくだらない話を聞いてくれる程度の人がいるのだから、一人ではないんでしょうけれど。


作品名:立石良則という男 作家名:山田