もうひとつの日常
「ふむ、さ来週と言ったね。ならば寄らせてもらおうかな」
「あ、そりゃもうぜひ!」
両津はズボンの尻ポケットに手を突っ込んで、すっかりくしゃくしゃになった紙を海江田に差し出した。開いてみるとそれは納涼大会の案内チラシだった。これは良いものをもらった、と海江田が礼を言ったとき、背後から「艦長ぉ~!」という情けない声が飛び込んで海江田は苦笑した。振り返ってみると、すっかり汗だくになった山中が怒っているのか、泣いているのか、安堵しているのか、あるいはそれら全てをひっくるめたような情けない顔をして走りよってきた。
「しまった。逃げる前に見つかってしまったらしい」
「なんだあの暑苦しい角刈りは・・・」
「こら、両津!」
「いやいや、事実山中は年中暑苦しいから」
「艦長!なにが“少し”ですか!?もう一時間も艦を離れられて・・・・・・!」
わなわなと肩をふるわせる山中の暑苦しさに、両津と海江田は顔を見合わせて苦笑した。
「この納涼大会の会場に入るにはチケットか何か必要かね?」
「いんや、署の裏手にあるデカイ駐車場でやっちまうもんだから、チケットはおろか荷物チェックもボディチェックもいっさいなし。手ぶらで金だけ持ってきてくれりゃそれで良い。あ、でもこのチラシ持ってくるとかき氷が一杯ただになる」
ほら、と両津の太い指が指した先には、チラシの端には『カキ氷引換券』と書かれている。この男のアイディアだろうか。なかなか芸が細かいな、と感心する海江田をよそに、山中はこの不審者に内心で眉を寄せていた。ちょっと目を離した間に、またこんな得体の知れない輩を・・・まさか的屋の人間じゃないだろうか。プライベートな付き合いであっても、的屋と自衛隊幹部の組み合わせっていうのはあまり世間体がよくないのでは・・・・・・、とじっとりと両津を上から下まで観察する山中の目には、善良な一般市民然とした部長の姿など映ってはいなかった。
「この日は早く帰れそうだな。子供を連れて行かせてもらうよ」
「へぇ~、アンタ子供なんていたんだな」
「ああ、こんな仕事をしているからね。妻と息子は離れて暮らしているんだが、夏休みに入ったので息子だけこっちに来ていてね、けどなかなか外に連れ出してやれなくて、機嫌を悪くしていないかと思って心配していたんだ。都会よりは自然が好きな子だし、夏祭りにでも連れ出してやれば少しは父親らしい事もできるだろう」
それは山中も初めてきく話だった。
そんな話を、初対面らしいこの怪しい的屋の男に話してしまう海江田に山中は内心でじれったく思った。それと同時に海江田が遠方からも家族に当てて手紙を書いている事は知っている。家族を大切にしているこの人のことだから、家で一人で待っている息子のことを相当気に病んでいるのではないか、と心配もしていた。ならば今日はもう何か理由でもつけて帰宅していただいても・・・いや、フェスの実行委員だってやらないんだからそれはまずいな。ああ、俺にひとつ勇気があれば「では私がどこかへ連れ出しましょうか?」と言えたらよかったのに。いや、そこまで艦長のプライベートに立ち入るわけには・・・・・・
「ならさ、明日、わしが釣りに行くんだが連れてってやろうか?」
がくっと思わず崩れそうになる体を山中は必死で堪えて、かたくかたく唇を結んだ。
今さっきであったばかりの的屋の男が一体何を・・・・・・!!?
そんな山中の内なる叫びなど気づくはずもない、いや、気づいているかもしれないがあえて無視を決め込んでいる海江田がそれでも興味ありげに「釣りに?」と聞き返す。
「明日は知り合いの漁船借りて沖合いにまで釣に行くんだよ。ああ、それだけじゃ子供預けるにはあやしいな。・・・あーえーっと、ほら、あった。ここで寿司屋の板前やってんだよ」
財布をがさごそとあさって、沢山のレシートやら領収書の間から両津は「神田寿司」の板前の許可証をみせた。
「・・・しかし、ここには浅草一郎と書いてあるが、君は両津勘吉ではなかったかね?それに警官では・・・」
「戸籍ふたつ持ってんだ。あ、ちゃんと金で買ったから合法だ」
さらっとなんでもないことのように言った男に、いよいよ山中の顔が青ざめる。
山中がエスパーで海江田の脳にメッセージが後れるものならば「絶対駄目ですよ!怪しすぎます!!」というメッセージが百通は届いたに違いない。いけしゃあしゃあと喋り出した両津には、部長も右手で顔を覆って「海自の幹部になんて事を・・・」と呆れている。海江田は「戸籍ふたつ」という部分を都合よく無視することに決めたらしい。
「しかしなかなか楽しそうだ。迷惑でなければ私も同行させてもらってかまわないかな?」
「おう、もちろん。海自ならF作業とかやってんだろ?釣具はあるか?」
「あいにく潜水艦なのでね。そんな楽しみとは無縁で。しかし個人的に持っているから大丈夫だ」
「か、艦長・・・!わ、私も一緒に行っても構いませんか?」
ようやくそれだけ吐き出した山中に、海江田がにこりと微笑む。
「だ、そうだ、両津くん、この暑苦しいのも一緒に頼めるかな」
「おう来い来い。人数多い方が釣れる量も増えるしな。良いのが連れたらわしが寿司で握ってやるよ」
がはははは、と笑った両津に、山中は「ははは・・」と愛想笑いのような苦笑を浮かべるしかなかった。
翌日、早朝。
待ち合わせをした東京の某停泊所にはすっかり仕度を整えた海江田親子に、山中がやってきていた。
海江田は普段の海自の制服を脱いで、防水になっているスラックスに薄い長袖シャツ、それから蛍光オレンジのライフジャケットをしっかりと着ている。その隣で、父親のスラックスをしっかりと握っておおよそ同じ格好に野球帽を被った緊張した面持ちの少年がいた。海江田の息子だった。夏休みに入り、夏休みの間中父親と一緒に暮らせるという念願が叶ったは良いが、海自の幹部という海江田の帰りは不定期で、海江田の単身赴任先のマンションでさみしい思いをしていた所に急に釣りへと連れ出してくれるという。海の生き物がすきな海江田少年は胸を高鳴らせたが、初めての海釣り、それも船で沖合いまで出て行くという冒険にすこし緊張していた。
海江田を少年にしたような、頬のやわらかで、大きな黒目がいかにも利発そうだが、その瞳は今日これから起こるだろう冒険に輝いていた。
一方、山中はその少年の輝きとは違う輝きをその瞳にじっとりと浮かべている。あの的屋だと思われたいい加減そうな男が警察官だったという事には驚いたが、それでも職業だけでは信頼できないのが今の世の中。艦長とその息子さんに何かあれば・・・いや、何かある前に守らなくては、という使命感にギラギラと燃えている。
「お~い!すまんな、こっちこっち!!」