もうひとつの日常
早朝の、まだうっすらと暗く、朝の冷たい霧のように清潔な中に濃厚な潮の香りがする港の雰囲気を一瞬でぶち壊すかのような両津の声が響いた。声のした方をみれば確かにちいさな漁船に乗った両津がこちらに向かって大手を振っている。まだ一匹だって釣ってもいないというのに真っ赤な大漁旗が掲げられている図々しさがいかにも彼らしい、と海江田は手を振り返しながら笑った。その隣で息子があっけに取られたように口をぽかんと開いているのと、山中がもうげっそりとしているのにも苦笑した。
少年が船に乗れるよう手を貸してやりながら、両津はその大きな手でわっしわっしと海江田の息子の頭を撫でてやった。
「きちんと帽子も被ったし、ライフジャケットも着てきたな、偉いぞ!あ、夜更かしなんてしてきてないだろうな?睡眠不足は酔うぞ?」
「だ、大丈夫です。お父さんが朝ちゃんと船酔いの薬も飲ませてくれましたから」
「ん、流石海自の子だな。父ちゃんの手際がいいな」
がははは、と笑ってまたわっしわっしと頭を撫でてくる両津に少年は目をまんまるにして父親と両津を見比べた。本当は、昨日の夜はわくわくしてちっとも眠れなかったんだけど・・・、と内心でちょっと不安になりながら、それでもこの子供の自分よりも子供みたいな大人の人と、うちのお父さんが一体どんな知り合いなんだろう、と少し首を傾げたくなった。クラスの友達から聞く「お父さん像」の、そのどれとも違う海江田。自分にはまだ遠いような、想像もつかないような交友関係があるんだろうな、と少年は納得した。
やがて両津の操縦で漁船はどんどん沖合いにまで出発した。
頬に受ける潮風の心地良さに、少年は「すごいすごい!」と目を輝かせ、すっかり両津に懐いたように操縦席の傍と父親の間を行きかい、山中も目を細めてその光景の微笑ましさについ頬が緩んだ。海江田も「君は船まで操縦できたのか」と関心したようにひょいと操縦席に顔を出せば、アロハシャツに短パン、そして何故か下駄を履いた両津が「大抵の事には手出してるんだ」と大きな口を開けて笑った。
「おっし、あの岩陰がベストスポットなんだ。この時期だと何が釣れたっけな・・・」
「この時期はシロギス、イチモチ、それに運がよければ黒鯛なんかも釣れるんじゃないかな」
「シロギス?それはキスの仲間なの?」
好奇心に輝く息子の丸い目に微笑んで、海江田はその頭の上に手を乗せて魚の説明をしていってやれば、息子の顔は父親のまたあらたな一面を知った喜びに頬を輝かせて、早く釣りたいなぁ、と高鳴る胸を押さえるようにして真っ白な歯を見せて笑った。
一時間後
両津、海江田、山中のクーラーボックスの中では大小さまざまな魚が狭い箱の中で跳ねるように泳ぎ、もう両津などは釣りをやめて魚をさばきにかかっている。子供がいるからな、と子供に対しては常識的な部分を垣間見せる両津はしぶしぶビールも日本酒も諦めてせっせと魚をさばいては寿司にして握ったり、ぶつ切りにした魚の身を入れた味噌汁を作り始めていた。海江田も山中も両津の作る料理からの良い匂いに誘われて、すっかり談笑モードに入っていた。
そんな中、海江田少年だけがおいしそうな味噌汁からも、御寿司からも、さみしからも、踊り焼きからもぷいっと背中を向けてただじっと海面を見守っている。浮き得はぷかぷかと海の上を浮いたり沈んだりを繰り返すが、魚が食いついた様子はまるでない。空っぽのクーラーボックスをちらりと見ては零れそうになる溜息を噛み殺して、浮き得と海をぐんっと睨む。
背中の向こうではお父さんや山中さんがそれぞれ料理や魚の話をしているのが聞こえてきている。
空っぽのクーラーボックス。ちゃぷん、とゆれる海水がひどくさみしい。
「なんだぁ、全然釣れてないじゃねぇか」
ぎょっとして振り返ると料理を作っていたはずの両津が背後に立ち、ぬっとクーラーボックスの中を覗いていた。はっきりすっぱりと言われた言葉に、少年はしょんぼりとする。すると両津がその隣にどかっと腰を下ろして、「ほら、ちょっと貸してみろ」とひょいっと釣竿をちいさな手から受け取って釣り糸を巻き上げた。
「ありゃ、こりゃ食い逃げされてんな」
「食い逃げ?」
「ほら、餌だけ食われて逃げられちまってる。仕方ない・・・この両津様の裏技をこっそり教えてやる」
裏技?と目を輝かせた子供に両津はにっと笑って、ポケットからくしゃくしゃになった食べかけのスルメを取り出した。少年が眉を下げてそれをどうするのかと見守ると、両津はスルメを小さくちぎってくしゃくしゃと揉んで、釣り針の先へとくっつけた。
「コレをするとな、魚がよく食いつくんだ。でも海にスルメの匂いが広まっちまって、お前んとこにだけ魚が集まっちまうから大勢でやるときは“ズルっこ”になるんだが、まあいいや。ちっとこれでやってみて、釣れるようになったら疑似餌にチェンジ」
そういいながら釣り針を慎重に海へと垂らし、持ち方から竿を揺らして、スルメをあたかも生き物かのように見えるようにするテクニックまで、両津は持ち前の凝り性と教え上手ですっかり話込みはじめた。少年は目を輝かせて、はい、はい、としっかりと頷き、両津に言われたとおりに釣竿を揺らした。
「なんだかすっかり懐いてしまったみたいだな」
両津の作った黒鯛をぶつ切りにしただけの味噌汁の、しかし店では決して味わえない味に舌鼓をうちながら、海江田は嬉しそうに息子と昨日できたばかりの友人の背中を眺めた。両津が容姿に似合わぬ類まれなる器用さや面倒見の良さを持っていることは、山中も認めざるをえない。事実、昨日まで両津を的屋の不審者だと思っていた気持ちなどはすっかりと溶けてしまい、すっかり両津を見直していた。
「そうですね。楽しそうで何よりです」
「ああ、昨日釣りへ行こうと誘ったときのぱあっと輝いた顔をお前にも見せてやりたかったよ」
ふふ、と昨日の息子の嬉しそうな顔を思い出すと海江田は頬が緩んで仕方がなかった。もっと子供らしく、面倒な事や甘えることや、小遣いをせびるようなことを言えば良いのに、どうにもうちの息子は遠慮がちで「さみしい」の一言も言ってくれないと思っていたが、あの嬉しそうにはにかんだ顔を思い出すと息子がこっちにいる間に有給をいくつでも消化してやらなくては、と思うのだった。
「お父さん!お父さん!!ほら!サッパだよ!!サッパが釣れた!!!」
はしゃいだ声に顔をそちらにやれば、立ち上がって誇らしげに、銀色に光る魚を誇らしげに見せる少年の姿が目に飛び込む。手を振り替えしてやろうと海江田が軽く腰を浮かした瞬間、船は大きく揺れ、「あっ」とその場にいた全員が思った次の瞬間には、少年は頭から大きな水しぶきを上げて海に落っこちていた。
海江田が息子の名前を呼して、慌てて息子がさっきまで立っていた場所に駆け寄るころには両津が海に飛び込んでいた。
夕暮れ、真っ赤な太陽が水平線の向こうに沈んでいく。
背中に背負った子供の熱いほどの体温と、ずっしりと重たい体重に海江田はつい笑みがこぼれる。