黄金の鳥かごの中で
陶酔から醒めたら
「ヘラクレスが馬に興味?」
遠路はるばるやってきたご老体を持て成していた所で、ふいにご老体ことグプタが口を開いた。
普段から無口というよりは言葉の少ないこの男がふいに何か言葉を漏らすのはよっぽど言うべき事柄である事が多い。でなければ、この男は持ち前の独特の雰囲気や目線、指の動きで自分の意思を伝える事ができる。その場の空気の流れの中で一番適切に自分の意思を伝える術を知っているグプタは、言葉を必要としないまでに長く生きた証拠なのだろう。
そんな男がわざわざ言った一言、それが「ハークが馬を見ていたよ」だった。
「あいつ、勝手にハレムを抜け出したな。誰が手を貸してやがるんだ」
「私の前でそんな白々しい嘘はつかなくてもいいよ、サディク」
本当はお前が仮初の自由を与えているくせに、とグプタが目で笑い、さいですか、と答えながら俺はナルギルから甘い果物の煙を吸い込んだ。だがこんな程度の陶酔では酔えなくなっている自分にふと気がつく。指はより強い幻覚と享楽、快楽を求めるように虚空を空しく撫で、それを見咎められる。グプタが眉を寄せて睨む。
「お前、そんなものをまだ求めていたのか?“アレ”は一瞬の快楽でしかない。後にやってくるものは破滅だ」
「俺の破滅は国が死ぬときだ」
ハッシッシ(麻薬)くらい好きにやらせろ、と自嘲した俺にじっさまの黒い瞳が何を思っていたのかは分からなかった。
もう酒や女やナルギルや・・・そんなものでは酔えなくなってしまっている。
体の中が蝕まれていくのを感じる。人間じゃねぇこの体を蝕むものがハッシッシ程度のことじゃないことは薄々感じていた。国は今、最盛期を迎えている。最盛期。あとは緩やかに破滅していくだけなのかもしれない。飽和しすぎた果実は、あとは腐り堕ちていくだけだ。しかし己の肉体が惰性していくことを直視できるほどの強さなんて持ち合わせちゃいない。あの女や、あの男は、自分の終わりの予感に気が狂いはしなかったのだろうか。俺は気が狂いそうだ。その予感から逃れるために、ハッシッシやアヘンの魅せる一瞬の陶酔に浸る程度のこと、一体何故咎められるのか。永遠に等しい時間を生きるんだ。少しくらいの堕落や享楽がなくてやってられるか。・・・・・・ヘラクレスならば、一体何でこの陶酔を得るのだろうか。
「しかしヘラクレスが馬ねぇ...。国としての自我の芽生えか?それともアイツも一人の男って事か?」
「さぁ、そのどちらかもしれないね。でも、あの子は元々動物が好きな子だから」
優しい子だよ、と微笑んだグプタに俺はナルギルの煙を吐き出すしかなかった。
狼狽する、といった方が良いようなくらいに驚きその馬と俺の顔を見比べる子供の頭に手を置いてやる。
子供は嫌がることもなくただ驚きとほのかな興奮に頬を高揚させてじっと馬を見つめる。馬は上等のアラブの馬だった。ベドウィンからスルタンに捧げられた献上品が、更に俺に下されたものの中の一頭、黒鹿毛の子馬。西欧の馬よりも幾分体格は小さいが、それでも従順で大人しく性格の良い馬。子馬ながらに分かる毛並みの良さは、立派に調教すればまさしく王の馬足らん魅力と才知のある馬だという事は一目で分かる。撫でる毛はまるでシルクのように滑らかで、皮膚の下で時折震える筋肉の、その熱くしなやかな事・・・。馬の扱いも知らねぇ餓鬼にやっちまうのが途端に惜しくなっちまう程の馬だった。きちんとした調教師に明け渡して騎馬となるように仕込めば近頃出回りだした火薬にも驚かねぇ良い馬になったことだろう。
「調教はしてねぇからいきなりは乗れねぇぞ。でもお前が大切にすれば、それだけお前に尽くす。お前に合う馬にできるようにしっかりと育てろ」
ヘラクレスは目を輝かせてしっかりと頷いた。まだまだ餓鬼だ。こんな馬一頭なら安いもんだ。
「お前の最初の家来だ」
「家来じゃない」
家来じゃない、ともう一度呟いてヘラクレスはぎゅっと馬の首根っこに顔を埋めたのを、俺は眉を寄せて妙な気分で見ていた。
それからヘラクレスは馬屋に入り浸って調教師の真似事のようなことをしているらしい。
調教師や馬の糞尿の世話をする奴隷らのような身分の男らに、あいつがどういう存在なのかは話している筈もねぇが、それでもハレムで“特別”な餓鬼だとは聞かされているのだろう、餓鬼んちょ一人がうろちょろと仕事場をうろついても追い出したりせずに律儀に馬の扱い方を教えているらしい。そもそもヘラクレスは、物を教えるということに関してはそう厄介な餓鬼でもない。わーわーと無秩序に泣き叫んで笑って怒るような餓鬼ではない。そういう餓鬼の方が可愛いもんだろうし、あいつのように何を考えているのか分からない得体の知れない異教徒の、聡明な子供ってぇのは薄気味が悪いもんだろうが、それでも調教師は匙も投げずに相手をする。ヘラクレスは二言、三言言葉を返して調教師の言葉を飲み込んでいく。元々あいつの“中”の知恵が手助けするのもあって、飲み込みも早いとわざわざ臣下が伝えに来たほどだ。
馬の背についに鞍を掛けさせたらしい。矜持の高い若馬によくやったもんだ、と感心したのもつかの間だった。
それから四日後、跳躍した馬の足に蹴り飛ばされてヘラクレスはぱっくり額を割った。
馬屋はまるで敵に攻め込まれたかのような騒動になったという。
身分の明かされていない、しかしハレムと外界を往来できる特別な子供の額がぱっくりと割れた。人間でなくとも人間動揺の肉と骨と血で出来た身体。そのまだまだ乳臭い子供の丸く白い額が裂け目のように口を開き、白い肉を盛り上がらせたかと思うと、あっ、と思う間もなくどろりと赤黒い血が溢れ出し、流石のヘラクレスも気を失った。尻尾に火をつけられた馬のように男たちはわっとその場を四方へと駆け出し、医者やら役人やら果ては祈祷師まで呼びに飛び出したという。その小さな額に押し当てられた清潔な布は次から次へと真っ赤に血を吸っていき、傷口を押さえる医者の手ににちゃにちゃとこびり付き、乾くよりも早くどろりと重たく黒い血が溢れた。そのままヘラクレスにハッシッシを吸わせ、初めて与えられた麻薬の渦にどろどろと引き寄せられて泥のように眠りと痛みと夢をうろうろと彷徨う間に額は縫合されたらしい。
どれもこれも「らしい」なんていうのは、俺はその場にいなかったからだ。
ハレムの最奥、スルタンや寵姫の部屋から更に離れた離宮。誰も近寄ることのない、霧雨の早朝のように冷えた空気と静寂に包まれた離宮で、俺は虚空を眺めていた。・・・そう、ヘラクレスの幼い額がぱっくりと割れ、蜂の巣をつついたような騒動になる中、俺はハッシッシの魅せる夢の中へと飛んでいた。俺が全てを知ったのは陶酔から覚め、ぐったりと気だるい意識の中でだった。
集まっていた奴らを下がらせ、眠るヘラクレスの額に手を置いた。