黄金の鳥かごの中で
止血帯の巻かれた額が痛々しい。強すぎる薬でぐっすりと眠ったヘラクレスの顔を見下ろしながら、たまらない何かに胸を支配されていた。罪悪感だろうか。苛立ちだろうか。喪失感だろうか。焦燥感だろうか。よくわからない。全部かもしれない。ただ胸の底がざらざらとするような、流砂に手を突っ込んだような、何かが重たく磨り減っていくような気がした。こんな程度のことで国が死ぬことはないと分かっていたが、それでもこの焦りのようなものが止むことはなく、俺は奥歯を噛み締める。ああ、忘れてしまいたい。こんな妙な気持ちなど、とっとと忘れてしまいたい。
また指先が虚空を彷徨い、自分が無意識のうちにハッシッシのパイプを求めていた事に気がつき舌打ちをした。
「さな・・・・いで・・・」
ふいにヘラクレスが何かを呟いた。うなされるようなか細い声に驚いて、しかし表情には出さずに目をやれば、眠っている筈のヘラクレスが目をうっすらと開けていた。そして目じりから涙が零れ、耳へと落ちていく。
「なんだ?」
「・・・いで・・・ころさないで・・・」
「・・・・・・何を?調教師か?奴隷か?馬か?」
冗談めかして言ってやろうと思ったが、笑いを含んだ俺の声はヘラクレスのひっそりと暗い部屋に戸惑うように広がり、口角だけで笑った俺の笑みが歪に宙に浮かび、ヘラクレスが唇を結んだ。
「騎馬を殺すのは走れなくなった時だ。・・・・・・んなのはまだまだ先のことだろうが」
第一、まだ騎馬にすらなってねぇ馬だ、と安心させたかったのか、不安にさせたかったのか分からない事を言ってその涙に濡れた頬や髪の生え際を手のひらでぐいっと拭ってやり、普段ならば可愛げのない言葉を吐いてこの手を押しのけるだろうヘラクレスも流石に今日はされるがままだ。
「だが、これでお前があの馬を見限るようなら、俺ァ、殺すぞ」
「・・・そんなの・・・ありえない・・・ばかさでぃく・・・」
そう一言搾り出したかと思うと、ヘラクレスはそのままこてんと寝入った。いや、気を失ったのかもしれないがどっちでも良いことだ。どうせ俺たちに「死」はないんだ。変な餓鬼だ。先のスルタンなんて、自分の騎馬稽古中に糞を漏らした馬を打ち据えて殺したってぇのに・・・。
安定したうめき声で陶酔に揺られるヘラクレスを一人残してその寝所から出ると、調教師が真っ青な顔をして立っていた。ハレムの中でないとはいえ、それでも家臣の寝所のひとつ。そんな場所に調教師が入れるはずもないというのに立っている。その事に眉を寄せる俺の足元に調教師は跪き、俺の靴に何度も唇を寄せて神と宇宙の名前で懇願した。
どうか、あの馬を殺さないでください。どうか、あの馬の代わりに私を殺してください。殺してしまえば、きっとあの子はもう馬に乗りません。あの子はそういう子です。あの子は才能があります。未来を奪わないでください。代わりに私を殺してください。
そんなことを懇願する男に俺は溜息を漏らした。
「あいつが勝手に蹴り飛ばされただけだ。だれを裁くもんか。―――――とっとと馬小屋に戻れ」
さもねぇと違う罪状で捌かれるぞ、と脅すように隠すように調教師の調教師たる矜持を持った男をさっさと追いやった。ったく、いつからこの帝国はお人よしばかりになっちまったんだ。苛立つように、手持ち無沙汰の指がまた虚空をまさぐる。
・・・・・・いや、
いや、とふと思い浮かび虚空をまさぐる指を止める。いや、しばらくは退屈を紛らわせるに違いない。
振り返れば部屋の中で夢と現を彷徨い、その狭間で喘ぐ子供が目に留まる。早く大きくなれば良い。いや、成長してその先にある自由を求めるよりは、このままでも良い。その先でこいつが俺を食ってしまう気ならば、それもまた良い。
きっと、良い退屈しのぎになるだろう。そしたら、ハッシッシも止めてもいいか。
ああ、夢から覚めたら何をしようか。