仰げば尊し
恋は盲目.1
生徒から告白をされることに、就任から数年で慣れてしまうような顔つきに生まれてきたことを、どう判断していいのか榛名は実は悩んでいる。
正直、ありがたいっちゃありがたいけど、まぁ面倒くせぇよなと、友人に言ったら表情を変えないまま力一杯殴られたので、それ以来口に出したことはない。しかし、これがひとつまみの嘘も含まない自分の本心だ。生徒たちの思いは、真剣ではあるだろうけれど一過性で。過ぎ去り、振り返って、「あぁ、あんなこともあったな」と懐かしい目で思い返すことが一番正しいとされる形をしているものだと思う。随分立派な大人になったもんだ、と自分に少し笑えて来るけれど。でもだからこそ大切に、真綿で包むようにしっかりと守って、あるべき形に返さなければならない。「ゴメンな、お前はオレの大事な生徒なんだ」と。決まりきった断りの文句は、すぐに響くこともあれば中々上手くいかないこともある。それを宥めて、期待は持たせないで、この守られた場所から送り出せば、一方的に絡めようとしていた糸は彼女達の手からあっさりと放り投げられる。一番綺麗なところだけ切り取って。先生でしかない自分には、その残骸をしげしげと眺め、せいぜい華麗にゴミ箱へと入れるくらいしか許されていないのだ、きっと。そんなことはもう、分かりきっているのに。
「わりぃ、おめぇの言ってることが何ひとつ分からねぇ」
困惑、という言葉を顔に貼り付けた榛名の前で、阿部は大きくため息をつくと、その勢いのままに睨みつけてきた。その目の近さに、入学当初から比べれば大分背が伸びていたのだなと、関係ないことが頭の中で微かに光った。
「何ひとつって、一個しか言ってませんけど」
「あーそうかい。んじゃ、おめぇの言ってることが、まるで、分からねぇ」
そうですね、それが正しい言い方です。と見当外れのことで頷いて、阿部はあっさりと榛名と向かい合う。視線はただまっすぐで、何の気負いも無い。
「なら、分かるまで考えといて下さい」
投げ出された言葉は、先ほどと何も変わらない。
「アンタが、好きです」
そんじゃ、と軽くお辞儀をして背中を向けると、阿部は丁寧に生物室のドアを閉めた。残された榛名が我に返ったのは昼休み終了を告げる予鈴が鳴ってからで、丸々十分は時間を無駄にしていたことに気付いたのは、更に十五分後、「会議始まってんぞー」と気楽に告げる教頭の声を電話で聞いてからだった。
やっぱり分からない。
考えても考えても出てくる結論が一つでしかないことに、榛名は眉をひそめ、最終的には諦めてくわえていた煙草に火をつけた。ゆらゆらと昇る紫煙をぼんやりと眺める。特別教室棟のさらに外れにある生物室は、常にどこか置いていかれた空気を漂わせている。その横にひっそりとある教官室なら尚更だ。煙草とコーヒーの香りが漂う、すっかり馴染み深くなった空気に榛名は身を任せる。思考はただぼんやりと、ぼんやりと浮かんでは消えていく。
ポン、と目の前に置かれた灰皿を見て、くわえていた煙草の灰が重力に負けそうになっていることに初めて気付く。でこぼこの表面に灰を落としてから、榛名は先輩教師に頭を下げる。
「あ、ども」
「いやいや」
そうしてまた沈黙が落ちる。
「……コーヒー飲みます?」
「いただこうかなぁ」
コポコポと落ちていく二人分のコーヒーを見ながら、榛名は知らず知らず眉をしかめていた。すでに三年生は自由登校に入っている。次の登校日は半月後だ。それまでずっと自分の頭はこんな感じなのかと、すでにウンザリしながら髪の毛をかきむしった。
「お、久しぶり」
ノックされたドアから姿を現した阿部は、半月前となんら変らないように見えた。榛名の軽い挨拶を聞いて、微かに眉を寄せる。
「どもっす」
ふてぶてしい態度の相変わらずで、榛名は思わず笑いながら準備室へと誘う。椅子に座らせ、荷物を端に寄せた机の前にコーヒーの入ったビーカーを置くと、阿部の眉はますます寄った。
「……で?」
仮にもセンセイの前でこの態度はどうよ、と生徒の前で煙草をくわえる自分を棚に上げて榛名は思う。そして生徒の前で緊張している自分に蓋をして、ため息をついた。漏れた息が、二人の間にそっと響く。電動のストーブが効き始めたばかりの準備室で、コーヒーの香りだけが強く漂っている。ビーカーに手を伸ばした阿部の指が、微かに、本当に微かに白く揺れているのを見て、あぁ、と思った。あぁ、ゴメンと。榛名は火のついていない煙草を外し頭をかくと、仕方がないとばかりに話を切り出した。
「あのなぁ」
ビクリと揺れた肩が見ていられなくて、俯いてしまう。
「オレさぁ、今でももしもって思うんだよ。もしも、どんな願いでも叶えてくれるっつうなら、オレは今でも、怪我が無かったことになりますようにって、願うんだ」
顔を上げると、阿部がいっそ不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。少しだけ笑う。
「くっだんねぇよなぁ。もしも、があったら、オレはここであったこと全部捨てちまっても構わねぇって思ってんだぜ」
笑ってしまう。そんな自分をどこか冷静に眺めながら、榛名は話を続けた。
「でも、ちょっと迷うかもしんねぇ」
阿部の視線を感じながら、榛名は目を閉じる。
「絶対とは言えねぇけど、でも、迷うかもしんねぇなってさ。……そう思えるようになったのは、多分お前がいたからなんだよ」
そっと視線を向けると、阿部は何もかも吸い込んでしまいそうに目を大きく開いている。その目を見ながら、躊躇う自分を振り切るように告げてしまう。
「オレは、お前のことを、特別な、生徒としてしか見たことが無い」
阿部の表情は変わらなかった。揺れない目のまま榛名を見て、「そっすか」と呟く。謝るのも何か違う気がして「おぉ」とだけ言った。そうして落ちた沈黙が、居たたまれなくてどうしようかと思う。煙草吸いてぇなぁ、と手の中にあるものをくるくると玩びながら、ため息を必死で堪えていると、コーヒーを飲み終えた阿部がビーカーを机に置いた。コトン、という音が狭い部屋にやけに響く。余韻になぜか水の中にいるような気分にさせられて、榛名は少し遠い目をした。
「……卒業式」
その声に、我に返ったように目の色を濃くした榛名を、阿部はじっと見ていた。焼き付けるような目だった。
「何か、欲しいもんあります?」
落ち着いた声にチリチリとした苛立ちのようなものを感じながら、榛名は何とか声を出す。
「……そりゃ、オレの台詞だろが」
それもそうかと初めて気付いたように笑う阿部を見て、榛名もようやく笑う。
「何が欲しいよ?卒業生」
榛名の言葉に、阿部は考える素振りで窓の外を見た。つられるように、榛名も外を見る。二月の曇り空はしんと冷気を運んでくる。雪が降らなきゃいいな、と煙草をくわえなおしながら思っていると、いつの間にかストーブへと視線を変えていた阿部がポツリと言った。
「……向日葵」
阿部は振り返った榛名を見て、まっすぐに言う。
「先生が毎年植えてる、あの向日葵の種を下さい」