仰げば尊し
春は始まり
淡くぼやける緑の葉をやはりぼんやりと見上げた。それだけで自分の体がひどく重いもののように感じて、胸のなかの億劫さがますます重くなる。ため息をつく。春休み中の大学は、閑散としているようで実は賑やかだ。遠くから聞こえてくる音の全てに希望だとか期待だとかそんなものがくっ付いているようで瞼が重くなる。寝転がった芝生は固い茶色の枯れ草から柔らかな緑の若葉に生え変わっていた。ここでもまた時の流れとか言うものを感じてしまって、ため息をもう一度つく代わりに目を完全に閉じた。白い木漏れ日の残像は瞼の裏の闇のなかで赤に変わる。赤い球は徐々に小さくなっていき、完全に消えてしまうと残ったのはただ穏やかな風だった。湿った土の香り、そして遠く遠くのほうで甘い、たぶん花の香りがする。春。春の花の言えば、オレは桜くらいしか知らない。そして一身上の都合により、桜の花が控えめに言ってダイキライだ。潔く散るのを本懐とするあの花は、思い出させるものが多すぎる。グラウンドの周りを囲むようにして植えられていた、あの花。しかし桜と言って一番最初に思い出すのは消毒薬の香りだ。昔スポーツやってました系のガタイのいいおっさんが着ていた白衣の向こう側で、薄紅の桜がかすんで見えたこと。揺れる空気のようなその花の色ばかり覚えているのは、まぁ単純に言って現実逃避と呼ばれる類いのものだろう。逃げられるのならこんな現実からは逃げ出したかった。
「リハビリ次第で、軽いスポーツなら出来るようになりますよ」
オレがこの世で一番嫌いな言葉は、消毒液の匂いと共に吐き出された。消えてしまえ。しかし消えるはずはない。仕方が無いので目を開けると、ゆらゆら揺れているのは黄緑色の若葉だった。一年とちょっとかけて、桜の花は二度散った。めでたいのかめでたくないのかはよく分からない。そしてオレの体の筋肉は減って脂肪は増えた。コレは全くめでたくない。めでたくないけど、現実だ。現実を捨てることの出来なかったオレは、さしあたって今後のメシの種になるモノを大学在学中に見つけなければならないのだけれど、コレがまたやる気が出ない。どうでもいいとしか考えられない。野球の出来ない身体になって、一体何を考えればいい?この問いかけの答えは、オレには一年とちょっとかけても分からないままだ。野球以外でメシを食うなんて、考えたことも無かったのはオレもだけれど周りもだった。それが永遠に叶わなくなったとき、呆然としているのはオレもだけれど周りもだった。だからこそ、こうしてゴロゴロしていられるのだけれど。しかし、タイムリミットは確実に近付いている。どうしようか。野球以外は何もしたくない。以前のように野球が出来るのなら何だってするのに。何をしたってその願いは叶わない。だったら、と思わなくも無かったのだが、泣く家族だの友人だのの姿が浮かんでそれもまた叶わなかった。臆病なオレには現実を捨てられない。何もかもがどうでもいいとしか思えないけれど、死ねないのなら生きるしかない。そして、メシを食わなきゃ生きていけない。メシの種は、思いつかない。さぁ、どうしようか。オレはこの先、何をして生きていくんだろう。何も見えない。どうしようか。
「あぁ、めんどくせぇ……」
呟いて、大の字に広げていた手を頭の後ろに組んだ。若葉はキラキラと春の陽射しを反射させながら、自分の体に影を落とす。それはヒラヒラと舞い落ちてくるもののように感じて不思議な感慨までもが胸に落ちた。
以前にも、こんなことがあった。
何だっけな、と頭の奥底に眠るものを注意深く取り出そうとする。ダラダラしていたつけだろうか、取り出そうとするとき、過去の記憶の順番は曖昧になっている。それこそ注意をしなければ、鮮やかに残るものばかりが浮かんでくるように。全ての感情が強烈に訴えかけてくる、あの、マウンドでの記憶ばかりが。それを浮かべて微笑めるほど、オレは出来た人間ではない。だから目を閉じてゆっくりと慎重に記憶を辿っていく。
あれは、夏だった。
瞬間、木の陰も緑の香りも濃くなり、陽射しは焼け付くように強くなる。記憶にある感触は、思い出した瞬間に輝きだすのだ。その夏の日、夏休みの練習日はいつものようにアンダーが汗で絞れるほどに濡れていたことも、倒れこむように寝転がった先の、日陰の土の冷たい匂いを覚えている。上から降ってきた言葉も。
「毎度、ごくろー」
美術教師は煙草を持つだけ持って火をつけていない。それを目の隅で確認すると、帽子を深く被りなおした。校舎の隅にある美術室前の木陰は、オレの休憩時の定位置としたため、窓から煙草を吸いながら顔を出した教師に「オレの肺が腐るから止めろ」と告げたのは春の初めだった。それ以来、教師はオレの前で煙草を吸わない。代わりにちょっと、苦笑する。今日もまた苦笑の空気を紛れさせて、教師は口を開いた。
「なぁ、何でボール球に手を出すやつって多いの?」
問いかけとも言えないことを言う教師に、オレはなぜか律儀に答えを返した。なぜかは今でもよく分からない。
「それがピッチャーの腕の見せ所なんだよ」
「ふぅん。じゃ、打ちにくい球ってのはどんなの?」
「速い球と、予想外の球」
「単純だな」
「甘ぇよ。分かってんのに、そう上手くいかねぇのが野球なんだよ」
オレの答えに、教師は呆れた気配にほんの少しだけ感心を混ぜて笑い声を上げた。オレは深く帽子を被りなおす。夏だった。空気は身体のなかと殆ど変わらない温度に上昇しているから、腕を動かすと不思議な気分になった。日陰の涼しさは分からないけれど、陽射しの熱さは分かるような。そのくせ、緑だけは濃い、あの空気。あのなかで、オレは。
「なるほどなぁ、面白いもんだな、野球も」
どこか遠い、近くで落とされた言葉に適当に返事をする。
「今さら知ったのかよ」
オレにとっての当たり前を、オトナが知らないなんておかしなことだと鼻で笑った。そんことが、世の中には結構多いことなんてもう知ってはいたけれど。
「まぁなぁ。榛名、お前教えるの上手いな」
オトナはとても落ち着いた声で不思議なことを言う。思わず眉をしかめた。
「は?オレが何教えたよ?」
「何って、野球、面白いってさ」
初めて知ったよ。お前、教える才能あるな。気軽に笑う声には鼻を鳴らすことで答えた。気に入らない、知ったこっちゃねぇ、というのは通じたのだろうか。分からない。聞いたことはない。そしてそのまま通り過ぎた。
過ぎた記憶を遠くにやるように目を開く。陽射しはあんなに強くない。春だもんな、と一人ごちて、再び体勢を変えて寝転がった。音がする。遠い遠い場所で、夏の記憶とごっちゃになる音が。
遠い、遠い場所で、今日も誰かが野球をやっている。
起き上がる気力も無くて、そのまま固く目を瞑った。コレが夢なら、と思う日々ももう過ぎてしまった。だからオレは手探りでどうしようかと考えては、やりたいことなんて何も無いことをひたすらに実感して。
(……そういやぁ、オレ教職とってたっけ)