仰げば尊し
空は透明
学校という、殆どの人間にとっては瞬く間に過ぎていくものの中に、いつまでも居座る自分は随分と変な生き物になった。そんなことをボソリと零すと、教頭は内緒話をするような口調で「オレらは化け物みたいなもんだからな」と笑いながら言った。秘密の対象は、きっといつも隣にいる校長だろう。駆けていくようにしていなくなる生徒たちに、せめて、少しでもキレイなものをと、汚いものを背負ってあっけらかんと笑う大人を思って彼は笑った。変わって行く対象の前で、いつまでもいつまでも居座り続ける。自分たちのことを「化け物」だと評したのは、もしかしたらその大人だったのかもしれない。優しい彼は、頷いた自分を秘密にしているのかもしれない。どちらが言ったにせよ、榛名はその言葉に深く同意するのだ。
いつまでも、いつまでもこの場所に。
学校に怪談が多いのはそのせいかな、と榛名は煙草をくわえて薄く笑った。夕暮れの学校を、生徒たちはどんな気持ちで思い出すのだろう。シャッターチャンスを逃さなかった写真みたいに、一瞬で焼きつくような、そんなものであればいい。
自分にはもう訪れることはない、そんな気持ちで。
「榛名センセイ」
固い声に振り向くと、声の通りの表情をした生徒が立っていた。練習着は土ぼこりで薄く汚れている。自分の背中にある夕日は、小さな汚れも浮かび上がらせるように影にしていた。
「なに?」
「夏合宿のことで、キャプテンが相談したいって」
ムッツリと告げられた言葉に軽く頷き返す。「明日、行くわ」と告げるとチカリと目を光らせて、黙って頭を下げた。不満な仕事をとりあえず終えたという顔を、隠しもしないで背中を向けた阿部に、ほんの少し目を細めたが何も言わずにそのまま自分も生物室へと戻る。自分の背中に、阿部が何かを言いかけた気配がしたが、多分気のせいだろう。
「どうしてアンタが顧問なんですか」
失礼なことを百も承知で叩きつけてきた阿部に、榛名が思わず笑ったのは確か先週のことだ。睨みつけるようにしてほんの僅かな恐れを隠していた阿部は、一瞬だけ怯むと、ますます目の力を強くして睨んでくる。
「校長がさー、どうしてもっつうから」
あっさりと言った真実に、阿部は不満そうに黙り込んだ。チラリと胃の表面を撫でるように沸き起こった苛立ちを紛らわせるように、榛名はタバコに火をつける。
「ま、変えて欲しいっつうなら校長に言えよ」
その言葉に、阿部はパッと顔を上げて榛名をまっすぐに見た。何かを言おうとし、口ごもり、結局何も言わずに阿部は生物室から出て行った。ペコリと、勢いだけのお辞儀を残して。無駄に丁寧に閉められた扉を見届けて、榛名はため息を漏らした。余計なことをしている。そう思った。
阿部は自分に、疑問ばかりを突きつける。榛名が阿部を思い返すときはいつも、疑問を投げかける姿や、疑問を突きつけたがって言えずにいる姿だ。目だけ、やたらにまっすぐな。
「センセイは、野球、好きなんですか?」
野球部顧問に訊く質問では無いだろう。訊かれるような態度をとる自分を棚上げして榛名は眉を寄せる。くわえただけの煙草が上下に大きく揺れた。
「……まぁ、それなりに」
へぇ、と気の無い返事を返し、黙ってスコアをめくる阿部はひたすら無表情だった。だからこそ何かを隠すような気配に満ちていて榛名は苛立つ。そして苛立つなんて余計なことをしている自分に戸惑った。だから嫌だったんだ、と何度目か分からない非難を心の中で校長に向けて呟く。
だから、近付きたくなんてなかったんだ。野球なんかに。
止まらなくなる。そんな自分を自覚してからは、極力練習にも顔を出さずにいた。阿部はそれが気に入らないらしい。
「ちゃんと見に来て下さいよ」と言う。お前こそ、ちゃんと見ろよと思う。野球に、手を伸ばせばひどく痛むものがあるのだと。見て分かれよと、そこまで考えて、榛名は子供に随分と過剰な要求を出している自分に苦笑するのだ。
分かるはずがない。
なのにどうして、言ってしまったんだろうか。
きっと阿部が、自分をまっすぐに見て言ったからだ。
自分はもう持てない、あの目で。
「どうして、」
「お前、そればっかだな」
自分の声の冷たさに驚いて、榛名は微かに目を開く。その先には、自分よりもずっと大きく開かれた阿部の目があった。笑いたいような、怒鳴りたいような、苛立ちが胃の中で凝縮されていく。榛名はギュッと目を閉じる。
「見たくなんかねぇよ、オレは。もう二度と取り戻せないものなんて、見たくねぇって思って何が悪いよ」
言ってしまってからしまったと思う。思うくらいにはもう、別のものになっているのだ、自分は。ゆっくりと目を開け、榛名は少しだけ阿部に向けて笑った。
「悪い」
まだまだだな、オレも。自嘲するように呟いて、ついでとばかりに煙草に火をつける。灰皿を出すのが面倒だったので、生物室の片隅にある水道へ歩く。プカリと浮かぶ煙が阿部に届かなければいいと思った。そんなものは、届かなければいい。オレンジ色の光を惜しみなく注ぐ夕焼けをぼんやりと見ていると、離れた場所で俯いていた阿部が、そっと顔を上げる気配がした。見れば、やはりまっすぐな、視線がそこにある。
「オレは、今のアンタしか、知らねぇから」
苦しげに歪んだ顔を、ただぼんやりと見ていた。
「オレの、目の前にいるアンタしか、オレは知らねぇ」
そりゃそうだ、とどこか遠くで思う。だからこそ自分は苦しくて。
「オレにとって、たった一人なのは今のアンタだ。アンタにとっちゃ、たくさんいる生徒の一人なのかもしれないけど。でもオレには、たった一人だ。だから……」
今、大事なもん、大事にしてください。
言い捨てて阿部は生物室から出て行った。残された榛名は、一緒に残された言葉にそっと触れてみる。何も知らない子供の言葉に、触れてみる。
阿部は、今の自分こそが榛名だと言う。支えを無くした、今の自分が。
榛名は思わず笑い出してしまう。堪えきれずに声まで出た。ハハハ、と乾いた笑いが一人しかいない生物室に低く響く。何も知らない。あの子供はやはり何も知らないのだ。
知らない、から、きっと自分は救われている。
目の上に置いた手がひどく熱い。榛名はその手の奥でグッと目を瞑る。
いつか、変わった自分を持て余さずにいられる日が来るのだろうか。来ればいい、と榛名は思った。今は想像すら出来ないけれど。
いつか来るといい。もしかしたらすぐそこにあるかもしれない日が、いつか。
そのときこそ、未だに大事な野球を大事に、出来るはずだ。
掌の熱を感じながら、榛名は動けない。その向こうで、阿部が見ていた過去のスコアが、風に揺られてハラリとめくれた。榛名自身の手でまとめた、ところどころ大雑把な、それでも細かいデータたちが。
次の日の朝、ベンチでぼんやりと煙草を吸っていた榛名は、背後に気配を感じて振り返る。すると想像したとおり、複雑な顔をした阿部と目が合った。
「おはよーっす」
「……おはよう、ございます」
顔同様に複雑な声に、榛名は笑い声を上げる。どうしていいのか分かりません、と顔にぺったりと貼り付けた阿部は、楽しげな声を聞くと不愉快そうに眉をしかめた。その顔に、榛名は声をかける。いつも通りの軽い声を。
「悪かったな、昨日は」