仰げば尊し
愚痴まじりの切羽詰った声に、渋々プリントを受け取ると、副担任は顔を輝かせて「サンキュ!じゃ、頼んだ!」と爽やかに消えた。半ば呆然と廊下を歩き出し、渡り廊下でこの道に随分と親しんでいることにウンザリとした気持ちになる。ここから見える小さな花壇はいつの間にか耕されて黒い土が見える。それを照らす光が赤みを帯びてきたことに気付くと阿部は慌てた。部活に急がなければ。少し足を速めて慣れた道を歩き出す。頭が真っ白でも、多分目を瞑っていても歩けるのではないかと、そんなことを思ってしまうくらいには慣れた道になっていた。
生物教官室に張られた張り紙が無くなっているのを横目で確認してから、阿部は生物室の扉の前に立つ。引き戸の取っ手がキラリとメッキをオレンジに光らせた。榛名は放課後になると生物室に置かれている水槽の世話をする。基本的には餌やりだが、水仕事もそう嫌いではないらしく、水苔の生えた水槽をゴシゴシと洗っているのも見たことがある。魚をバケツに移し変えるときの柔らかな手つき。壊れやすいものを扱うのは苦手なのだと主張するような大きな手で、榛名はゆっくりと魚に触れないように気をつけていた。今日もそちらにいるのかもしれないと、阿部は歩いてきたリズムのままに扉を開け放つ。電気のついていない、ガランとした生物室で榛名はぼんやりと窓の外を見ていた。手には煙草がある。ゆらりと白い煙が榛名を包んでいる。まるで優しいもののように。夕陽の光が榛名の見ている窓から降り注ぐように入ってきているのに、教室の中はやけに暗い。影があんまり伸びるから、引きずられるように光まで暗く見えてしまう。
そこで、何を、見てんですか。
浮かんだ問いかけを放つことがまた出来ない。いつも榛名はそれすら許さないほど遠い場所で、榛名にしか見えないものを見ている。そんな風に見える。
何で、とまた続きを隠した思いが脳裏を過ぎる。目の奥がどうしようもなく熱い。何も言えず立ち尽くした阿部に気付いた榛名は、ゆっくりと振り向くとまた笑いの気配だけを阿部に残す。表情は見えない。オレンジ色の、光で、まぎれてしまう。榛名は声をかけるよりも何よりも先に煙草の火を消した。そんなことをしなくても、届かない、届かせない場所にいるくせに。阿部はきつく奥歯を噛みしめて、全てを染め上げる光の中に立つ榛名を見つめた。どうしてもどうしてもどんな顔をしているのかは見えない。
見えない、届かない、焼けつくような、もどかしさに。
好きだ、という言葉を、このとき初めて当て嵌めた。