ゆっくりとおとなになりなさい
その日の残りの授業をどう過ごしていたのか阿部はあまり覚えていない。黒板に書かれていく文字を写経のように黙々と写していた記憶はあったが、それに付随していたはずの内容も教師の声も、どこか遠いところを流れていくもののように阿部を素通りしていった。出来の悪い冗談を聞かされたときのような苦味が喉元にあった。
掃除当番を押し付けられていた栄口と水谷を残して向かった部室には先客が二人いた。真っ先に目に入った田島に、さっきのはなんだったんだと阿部が問いただす前に、田島は明るく笑ってみせる。
「阿部はえーな」
「……お前らのが早いだろ」
出鼻をくじかれた形であごを引いた阿部に、田島は、あそっか、と嬉しげに歯を見せた。うち六限自習だったんだ、と言いながらおおきな瞳をくるりとめぐらせる。仕掛けたいたずらが一番効果を発揮するタイミングをじれながらうかがう子供のような表情だった。
「さっきの聞こえたか?」
「……あれなんだったんだよ」
「あ、聞こえなかった? 榛名がプロに――」
「それは聞こえてんだよ。オレが聞きたいのは、どこでそんな話仕入れてきたのかってこと」
「花井んちのかーちゃんがメールで送ってくれた。家でドラフト見てんだって」
なあ、花井! と呼びかけられた坊主頭は、困惑の色を濃く落とした顔で、曖昧に頷いてアンダーシャツをかぶった。
「さっき来たメールなんかすごかったよなー。こう、ズラーっと名前書いてあってさあ」
「あの人おかしんだよ。毎年甲子園とかドラフトとかビデオに録ってっし」
花井は気まずげな横顔でぼそぼそと弁解した。その間も、まとわりついた田島が花井のロッカーに伸ばす手を阻止するのは忘れない。邪険に払われてもまだ手を伸ばしている田島の様子に、いつも通り花井が先に根負けする。
「なんだよ、さっきから!」
「なあ、さっきのやつもっかい見して」
ケータイケータイ、とおかしな節をつけて歌う田島を尻目に、阿部は共同のロッカーを開く。立て付けの悪いスチールは田島の声を掻き消すようにばこんと不穏な音を立てた。
「阿部、ほらこれ。花井のかーちゃんの力作!」
ひょいと横から手渡されたのは花井の携帯で、バックライトの光も眩しい液晶の中では細かな文字がきっちりと並んでいた。数回スクロールを繰り返しても終わりまで辿り着かないその文字列は、今日あったというドラフトの結果を球団名、選手名、学校名まで事細かに伝えていて、これが花井の母親から送られてきたものだとしたら、確かに田島がすごいすごいと騒ぐのも納得できる詳細さだった。ずいぶん前に、惜しみなく協力をする花井の親に監督が喜びの声を上げたとき、横で聞いていた花井が冗談とも本気ともつかない真面目くさった表情で、あの人のあれは半分趣味ですから、と言っていたのは、あながち冗談でもなかったらしい。
何度か画面が切り替わったところで、見知った――とてもよく知った文字の並びを見つけてしまって、阿部は瞬きにも満たない時間スクロールの手を止めた。しかしすぐにそんな自分に気付き、今この瞬間にはたいした意味を持たない文字の並びを画面の流れの中に投げ込んで、そして断ち切るように携帯を折る。背面の液晶に時刻を浮き上がらせたそれを正しい持ち主に放って、阿部は口先で確かにスゲーな、と呟くと、そこで会話を終わらせるつもりで唇を閉じた。その先に続くであろう内容に、自分は関係ないという意思表示でもあった。が、そんな含みは田島には通じない。
「な。榛名ん名前入ってただろ」
婉曲さを知らない田島の無邪気さと素直さは、意思表示の苦手な(少なくとも阿部にはそう見える)三橋に向けられている限り良い方に作用しているように見えるけれど、それが自分に向けられたとなると話は別だった。真っ直ぐに見つめられれば何かしらの言葉を返さないわけにはいかなくなる。苦労性のキャプテンが興味のない態度をとろうとして失敗しているのを視界の端に収めながら阿部はワイシャツを脱ぎ捨てた。
「いたな。でもドラフトって交渉権だろ。まだ決まったわけじゃねえよ」
「フツーこのままプロんなるだろ」
「そんなんオレが知るか」
嘘だった。
榛名はきっとプロになる。たぶん、というにはあまりにも確信に近い予感を持って、阿部はそう思っていた。
「知ってるやつがプロになんのって燃える!」
「あっそ」
「えー、なんだよー。阿部は燃えねえの?」
「別に」
そっけなく言った半分は本気だ。阿部の中で榛名がプロになるというのは半ば決定事項であって、それが高校卒業後だろうが大学や社会人を経てからであろうが、感じるのはただ時期が前後することへの淡い感慨だけで、田島のように強く感情を動かすことはなかった。残りの半分は、この話題を遠ざけたいという思いだったが、あまりに身に馴染み過ぎたそれを阿部が確かな形で自覚することは少ない。ユニフォームを着込む手順に意識を払うことがないのと同じようなものだ。羽織った練習着のボタンを無意識の指先が澱みなく留めてゆく。
「関係ねえよ」
「なんで。阿部は榛名の球、捕ってたこともあんじゃん」
まだ物足りなそうな様子の田島は不満げに言い募る。阿部がなにを答えようか逡巡していると、無遠慮に部室の扉が開きまだ子供子供した面差しの後輩たちが顔をのぞかせた。口々に挨拶をしながら入ってくるその後ろには巣山と栄口の顔も見える。狭い部室はそれだけでいっぱいだった。頭の後ろで手を組んだ田島は、いままでの会話を忘れたようにぱっと身を翻した。
「混んできたから、オレ先にグラウンド行ってよ!」
開け放しの戸口から駆け出していく背に、なぜだか救われたような気分になる。そんな自分を戒めるように、阿部はベルトをきつく締めて顔を上げた。上げた視線の先に、最後に現れたことを見咎められたとでもようにびくりと肩を震わせたエースの姿が映る。
「うす」
「ち、ちわっ!」
引き結ばれていた三橋の口元が解けた。例外からはじまった放課後は、いつもの顔を取り戻す。少なくとも阿部はそう信じていた。中断された日常の続きがはじまったことを、信じていたのだった。
作品名:ゆっくりとおとなになりなさい 作家名:スガイ