ゆっくりとおとなになりなさい
翌日には榛名の話は部内の全員に知れていた。
田島に一報をもたらされてから、阿部は意識的にこの話題を避けている。どうせ朝は日の出よりも早く起き出し、夜は夕飯時をとうに過ぎた頃に帰る毎日だった。テレビなどを見る時間はもとから無い。今朝は新聞のスポーツ欄を見ないで家を出た。下位指名の人間の名前などは当日と、契約の周辺にひっそりと掲載されるだけだから、この話題から手を引くのは簡単だった。榛名元希、と本人とは似ても似つかない頭でっかちの字面や、目ばかりが強く映るあの顔を、だから阿部は見ていない。
唯一の例外は田島くらいで、それも苦労性のキャプテンが阿部の不機嫌を察してそれとなく矛先を変えさせてくれるのだから適当にあしらえた。視野は広いし機転が利くが、その実、感情の機微に聡いわけではない花井にまで不機嫌を悟られている自分に思うところがないでもないが、だからといってどうすることも出来ず、阿部は一日を終えようとしている。
武蔵野第一高校は結局榛名がいた三年間も地区大会で消えていたから、メディアの取り扱いは甲子園でひと夏を越して一躍全国区になった多くの選手に比べたら、ないも同然のちいさなものでしかなかった。それでも埼玉県内に限って言えば、榛名は二年の春から偵察を集めるくらいの有名人だった。バットをすり抜ける器用さはなくても、押し切って黙らせるようなわかりやすく派手な投球はどうしたって人目を引く。隣というには西浦と武蔵野の間はいささか距離があったけれど、これだけ近くの学校から同年代がプロにいくという話題はたまらないネタとして部内の話題をさらった。こんな年まで野球をやっていれば、どこかで一度や二度プロになりたいと思ったことのある人間が大半だった。羨望というには遠すぎる、ドラマの登場人物を羨むのにも似た、淡い憧れと賞賛を抱く者は多かった。
練習後の部室では誰が持ち込んだのかわからないスポーツ新聞が広げられている。着替えを終えてもだらだらと居残っていた部員がその周りを囲んだ。阿部はひとりその輪を離れて無関心な素振りで部誌に向かっていた。打ち捨てられていたのを拾ってきたという古い机は、ペンを走らせる度にガタガタと細かく震える。今日に限って回ってきた当番を忌々しく思った。さっさと書き上げてここから引き上げるのと、音を締め出すほど部誌に集中するのとどちらがいいかと一瞬考え、阿部はすぐに前者を選んだ。聞くつもりもない会話だからといって、ちょっとやそっとの集中で無視できるほどこの部屋は広くない。空白を埋めていくペンの音を飛び越えて、榛名かあ、と感慨深げに呟く声を耳は勝手に拾ってしまう。
「四順目って、さー。どうなん? ビミョウ」
「順当なんじゃねーの。むしろ出来すぎ。ココって今年打撃優先で獲ってっし」
「甲子園行かなくても高校からプロってなれんスねえ」
「いや、そりゃなれんだろ、お前」
「武蔵野って夏どこまでいったんだっけ」
「えー? ………どーだっけ? ベストエイトいったの今年?」
「たぶん篠岡なら知ってる」
「はは、確かに。あの人マニアだよね」
「トーナメント表、三年分持ち歩いてるって話だぞ」
完全に雑談になりつつあった会話は、そのまま逸れてなし崩し的にばらけていくかと思ったが、輪の中をひょいと覗き込んだ一年が驚いたように上げた声によって、あっという間に元の位置まで引き戻された。
「え! この人、オレと中学一緒だ」
「どれどれ。どいつ?」
「どいつって、埼玉一人だろ」
「榛名?」
あどけない顔の一年は、各選手のデータが書かれた表の一部分をなぞり、斜めに首をかしげた。坊主頭を長身に乗せた後姿は一年前の花井に似ていると評判だったが、最近の花井はすっかり体が出来てきていたから、厚みはずいぶん違っている。
「――中だもんな。やっぱそう、みたいっスけど……。えー、でもこんな人いたかなあ」
中学でも野球やってたんすよねえ、と言って眉根を寄せたひょろ長い後輩を、しゃがみこんでいた泉が見上げる。
「榛名、部活は中二で辞めてシニア行ったらしいから、お前と入れ違いじゃね」
「そうなんすか? そっかー…。それだと知らないっスね。ウチ人数多かったから。なんかちょっと残念っスよね。せっかくプロになるようなやつと一緒にプレーできたかもしんないのに。中学の先輩とかは知ってんだろうな」
「シニアでエースだったって。な、阿部」
突然話題を振られて阿部は驚いて顔を上げた。なぜここで阿部に話が振られるのか知らない一年達の興味を湛えた瞳と、なんの感情も浮かばせない泉の視線と、そこに挟まれて興味と遠慮の間で揺れる二年の視線が透明な圧力になって寄せた。
「……なんだよ」
「こいつ榛名と同じとこ出身」
泉はあごで阿部を示す。含むところも何もなく純粋に自分の興味のためから話題に出してくる田島と違って、泉は踏み込んでいると明確な自覚をもってそれをするから性質が悪い。苦々しく頷いたが、阿部はそれ以上その話に付き合ってやる気はなかった。
「へー! じゃあ一緒に組んでたりしたんすか? って、それはないか、学年違いますもんね。でも、……いいなあ、阿部さん」
どんな人でしたか。やっぱ練習とか厳しかったすか。きらきらと真っすぐな眼差しを向けて、はにかんだ笑い方をする後輩の声をさえぎって阿部は立ち上がった。
「さあ。一年しか一緒じゃなかったから」
書き終えた部誌を机の中にしまって鞄を掴む。
「お先。遊んでないでお前らも早く帰れば」
挨拶もそこそこに扉を閉める。薄い扉の向こうから、オレ、なんかまずいこと言いましたか、と戸惑いを含んだ声が耳を打った。
悪いことをした、と思う。あいつはなにも悪くない。どちらかといえば阿部の反応を試すようなことをした泉にこそ矛先を向けるべきだったのだ。そう思ったが、戻っていってあの後輩を宥めてやる気にはなれなかった。羨望と少しの憧れを混ぜたようなあの目の光のせいで思い出されてしまうものがありそうな予感がして、振り返ることが出来なかった。
作品名:ゆっくりとおとなになりなさい 作家名:スガイ