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ゆっくりとおとなになりなさい

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 のど鳴りに似た音をたてて、風が校舎を駆け抜けていった。ざあざあと緑の木々から葉を毟りとった風が、用水路を渡り野球グラウンドのフェンスを大きく揺らすのを見て阿部はいま出た用具入れを振り返った。古ぼけたプレハブの小屋の中で長身の影が動く。
「花井」
「あー?」
 ボールの入った黄色いかごを持ち上げようとした体勢で阿部を見た花井は、阿部の指の先に釣られるように空を仰いだ。
「やばそうか?」
「どーかな。午前中くらいですんでんならやれそうだけど。でも風出てきたかんなぁ」
 昼飯前まで秋特有の高く薄い色合いをしていた空は、今では全体に灰色の雲を薄く敷いたように薄暗く澱んでいた。その下を掴めそうなほどくっきりと形をつくった黒い雲の塊が目に見える速さで横切ってゆく。見ている間にも空は刻々と表情を変え暗さを増す。乾ききった土を巻き上げる風は生ぬるい南の風だ。
「前半は持ったから、もうちょい大丈夫かと思ったんだけどな」
 日曜の朝を飾るどこかのんびりとした雰囲気の天気予報では、季節外れの嵐は夜になってからこの街の上を駆けてゆくだろうと伝えていたが、この様子だとそれも怪しいものだった。緩いゼリーのように粘度を増した空気は明らかに天気が崩れてきていることを示している。
「今日で試験前最後だってのに」
 どちらともなく呟いて溜め息を吐いた。中間試験が近い。普段の理解度と成果を確認するためだというくせに、その前に一週間も課外活動を停止させて勉強漬けにしようとする矛盾を学校側がどう思っているのかは知らないが、とにかく明日から部活は休みに入る。
「……まぁ、確かにあれじゃ練習にならねーよなァ」
 しばらくじっとその場で雲の流れを読むようにしていた花井は、ふっと視線を下げて諦めたように息を吐いた。その視線の先では、さっきまで腹ごなしの鬼ごっこだ、などと言って駆け回っていた田島が、強すぎる風に煽られながら「オレ飛ぶかもしんねー!」と叫び声を上げて、一年たちにくすくすと笑われていた。
「なにやってんだ、あいつら」
 はしゃいだ様子で手を広げる田島や、それを囃したてる泉の短い髪の先が風を孕んで波打つ。後ろのポケットに突っ込まれた帽子は田島よりも先に空へ吸い込まれそうだった。風はますます強さを増している。花井は苦い顔つきで「上級の自覚あんのかよ」と疲れた様子で呟くと、再びこちらに向き直った。
「モモカンがメシ終わったら相談すっか。この調子じゃ早く終わりにした方がいいかもしんねーな」
「だな。下手すっと四番が飛ばされちまう」
 お前な、とさっきよりさらに渋い顔をした花井に冗談だよと言うと、花井はさらに顔を顰めて、お前の冗談って面白くねえと言い置いてグラウンドに出て行った。
「たじまぁ、いい加減にしろよ!」
 仁王立ちになったキャプテンと、その視線の先の四番をグラウンドの全員が笑いを含んだ顔で見守る。見慣れすぎて見ているほうが飽きるほど、よくもまあ毎日毎日別の理由で叱られ続けることが出来るもんだと関心すら覚える。ごうごうと凶悪な音を立てる風の中で田島が大きく手を振った。日に焼けた顔の中で笑みの形の歯並びが白い。
「はないー! スゲーな、今日!」
「ばっか、遊ぶな! あぶねーだろ」
 外野を越えて、校外まで響いているであろう花井の声を割って、道を挟んだ校舎の方から透明な芯の入ったなにかのようなきらきらしい管楽器の音がしたので阿部はそちらに気をやった。それは夏の日のうだるようなグラウンドの底で聞こえた音と同じ、鮮やかに空に伸びていく音のはずなのに、低い雲に跳ね返って低くサイレンのように響いていた。
 結局、練習はそのまま終わりになった。監督が判断を下すよりも前に学校側から下校の指示が出たのだった。昼休みの後、部員を集めた監督は、長い髪を風に取られながら、しょうがないよね、とあっさりと言って全員に向き直るとにっと唇を引いてみせた。
「一週間は試験勉強しっかり頑張ってね。赤点取ったらどうなるか、みんなわかってる、よね?」
 握られた両手を見つめて後退りしたのは一人二人ではない。顔色を悪くして今にも震えだしそうな三橋を目に入れて阿部は内心苦笑する。
「今日はお天気こんなんだから、気を付けて飛ばされないように帰るんだよ、特に田島君」
 さっきの様子を監督も見ていたらしい。並んだ頭の間から忍び笑いが漏れる。
「じゃあ、また十日後に」
 はい、と答える声の重なりを、強すぎる風が巻き上げる。嵐が近いのだ。