透明の向こう側
宵闇に紛れて逃げるように言う母の瞳を見て、彼女の中に逃げるという意思が全くないことに気づいてしまったから、水谷は何も言えなかった。
大きな構えの門ではなく、裏道に繋がる城壁にできた小さな通用口で交わした最後の挨拶は涙に濡れていたけれど、どこまでも優しい月の光はその涙すら輝かせて美しうさせてくれる。
共に無事を願う別れの言葉は闇に溶けた。
たった一人、荷を積んだ馬車に乗り込むと母が御者の巣山に「どうか、文貴を無事に送りとどけて」と泣き縋るのは聞こえないふりをした。今ここで己が泣いてしまっては、まるでもう二度と会うことが叶わないことを肯定しているように思えたからだ。
小さな布で隠された窓を開けて、白い絹のハンカチを握りしめる母の姿を脳裏に刻む。
どうか、無事で。
御者の小さな出立の合図に掻き消された自分の想いは母に届いただろうか。
握り締めた両手の中に包まれた懐中時計が小さく軋む音を聞きながら水谷は再び穏やかで静かな眠りについた。
文貴が目を覚ますと窓の外は宵の闇にそっと太陽の光が混じりこんだ美しい空が広がっていて、まるで到着を知っての目覚めだったのかのようにそっと馬車は動きを止めた。いつの間にか座椅子に横たえていた身体は固い上着と装飾の何もかもを外された楽な姿勢になっていた。冷たい空気が喉を痛めて眉間に皺をよせると、額から濡れたタオルが落ちてくる。
欠けることのない美しい石畳の道と細工の施された黒い城門がゆっくりと開き馬車は再び動き出した。通された場内はかつての己の城のように穏やかで温かい。
やがて外から開かれた扉から、御者の巣山が姿を現す。
「お目覚めでしたか…!」
失礼します、と一声かけたよく出来た御者は水谷の手に落ちた生ぬるい温度のタオルを取り上げ、静かに額に手の平を添えた。
「国境を越える頃から殿下は突然熱を出されて四日も眠り続けていらっしゃったのですよ」
国から逃亡する身である殿下を街の医者に見せることも叶わず、幼いころ身につけた薬草学で急誂えのお薬を作るのが精一杯でした。
良かったと、頭を下げる巣山の言葉に驚きを隠せなかった。いつまでもそうして膝を付き項垂れる巣山に顔を上げさせると気丈で逞しい男のその瞳にうっすらと涙が浮かんでいる。
「ありがとう、巣山」