透明の向こう側
「私は国を捨てた身。王族を名乗る資格は、あの国に背を向けることを決意した時に捨てて参りました。王太子ではなく、今はただの水谷文貴という一男子でしかありません」
茶色の髪と同じ色の瞳はまっすぐに当主の元に繋がる。
けれど、装飾を失い引き千切れた上着、長旅によって皺の寄ったベルベットのズボンを身に纏う姿でありながらも、この空の下声を響かせるそれは確かに王族の気品と気高さに溢れていた。
「そんな私たちに居場所をくださるあなた方に感謝こそすれ、持て成されるなど筋違い。労働には不慣れな身ですが懸命に尽くします。この身を置く場を頂き、ありがとうございます」
とても少年の言葉とは思えない迫力に気圧された周りの人間は、ただ息を呑むことしかできなかった。先ほどの風えを追うように吹きぬけた風が流れ去った時、ようやく立ちつくすだけだった人々は少年の一言で動きだした。
「文貴、俺のことは勇人って呼んで」
笑顔を貼りつけた栄口家の嫡男が笑って差し出した手を水谷が握り返す。目元に手を当てる巣山を振り返った水谷が小さく「俺に着いてきてくれてありがとう」と告げると、故国では厳格で名を轟かせていた執事は膝を付いて嗚咽を漏らした。
まだ成人を迎えていない文貴は、勇人と共に剣の訓練や勉学に励んだ。元いた勇人の家庭教師の西広は文貴を温かく迎え、更に故国で文貴に教鞭を奮っていた巣山までもを迎えてくれた。当主の厚意により西広と巣山二人で執り行われるようになった毎日の授業は日々文貴と勇人を扱きあげる。
「西広先生の授業は巣山のと違ってちゃんとしなきゃいけない気がして疲れるよー」
午前の授業が終わり昼食の休憩が与えられて、文貴はすぐに濃い木目の美しい机に上体を崩した。広げられた本とノートと万年筆がその身体の下で悲鳴をあげているのを見て、勇人はクスクスと声を上げて笑った。
「巣山先生の授業だってちゃんとしてなきゃダメだよ」
「えー…だって巣山はさぁ、なんか言ったら怒って面白いじゃん。でも西広先生はだめ。真面目すぎて申し訳なっちゃうよ」
「巣山先生からかって…。だからすぐ文貴は巣山先生に宿題を一杯出されちゃうんだよ。ほら、今日も隣国の王族についての課題が出されてたでしょ」
「うー…」
「俺も手伝ってやるからさ、後でがんばろう?」
「うん」
「とりあえず、今日は天気が良いから外のテラスで昼食にしようか」