雨に似ている
左手に持っていたレモネードを一気に飲み干すと、木のカップの底から溶けなかった蜂蜜の固まりが喉に滑り落ちてきた。その熱くてドロッとした甘味が、喉に疼くような痒みをもたらす。
今の自分には、この蜂蜜がキラに思えた。
ドロドロに甘いことが、逆に刺激的で居心地の悪さを感じる。
暗殺家業に身を置いた今、人から畏怖され嫌われ続ける自分達を、ただ人と同じように接してくれる存在はものすごく稀有だ。同業者以外では希少価値とも言える。
その奇跡のような女がここにいるのだ。自分の目の前に。
そんな母にも似た慰められる存在も、いつかはここから出ていくのだろう。
自分を置いて。
ニコルを置いて。
どんなにキラにここにいて欲しいと願っても、それは叶えられない希望だ。
彼女は、イザークやニコルの捕虜じゃない。二人には何の権限もない。
彼女は、『ロゴス』の所有する捕虜なのだから。
「で〜きた♪ ねぇイザーク、きつくない?」
キラは『少し動かしてみて欲しいなぁ』と、言わんばかりにイザークの右腕をすりすり撫でる。そんな気心の知れた者の行う振るまいが、自分の喉と同じように、居心地のわるいむず痒さをもたらす。
知らず知らずのうち、深くため息をつく。
「貴様はどうしてそういつも能天気に笑っていられる? 自分が今後どうなるのか考えたことはないのか?」
そんなくぐもった声に、彼女は怪訝げに首を傾げると、怯えるどころかおでこに自分の手を当てた。
「う〜ん……熱はないような、……あるような。もしかしてニコルの風邪、うつっちゃったのかな?……イザークも結構濡れたしねぇ……」
その無邪気な仕草が、ただでさえ低い沸点を酷く刺激した。
「馬鹿か!! 貴様が攫われてきて一体どれぐらい経つと思っている? もう八ヶ月だぞ!! なのにお前の家族は、一向に身代金を払う気配もない。このままじゃ、お前は娼館に叩き売られるか、奴隷になる。どっちも結局は競り市だ。
船着場の広場に組み立てられたやぐらの上で全裸に剥かれ、知らない男達に品定めされて、牛馬同様に値段つけられる!! 王女のくせに不安はないのか!!」
「う〜ん……そうなったら、困るなぁ」
彼女はネックレスとしていつも身に付けていた金細工の小さな鳥の護符を手繰り寄せた。
羽を広げた意匠の小鳥は自由を意味しており、幸福を祈願する護符として一般に普及している。
そんな人差し指の半分しかない程小さな護符を、彼女は大切に左手で包み込むと、空いた右手で一通りの女神に祈る聖印を指で刻んだ。
そしてその後は、何事も無かったように「イザーク、ブランデー入りの紅茶でもいれようか? 体温まるし」と聞いてくるのだ。
「馬鹿者!! 貴様、他に言う事はないのか!!」
途端、キラは待ってましたといわんばかりに、にゅっと右の手の平を突き出してくる。
「ならイザーク、ナイフ貸してよ。料理用の包丁だとね、切れ味鈍くて狼の毛皮が剥げないんだ♪」
ぷるぷると拳が震えてくる。
どうしてこいつとは、言葉が通じないのだろう?
「違う!! 俺の言いたいのは……!!」
「君の言いたいことはわかってる。わかっているから」
キラは穏やかな紫水晶の瞳でイザークを覗き込み、ぽしっと彼のまっすぐに梳られた髪を撫でてくる。
「でも、今は僕の意志でどうこうできる立場じゃないでしょ。だったら、今ここで、今できることで、僕は君たちと快適に過ごしたいと思うんだ。ねぇ、君が仕留めたあの狼、本当に綺麗な毛皮だよね。きっと良い敷物になる。暖炉の前がいいかなぁ? それとも折角だからイザークの寝室に置く?」
真剣な眼差しになったのも束の間、彼女は目をうっとりとさせながら、いまだ捨て置かれたまま床に横たわった狼を眺めている。
虚脱感に目眩を起こしそうだ。
「……良く切れるから、使うときは気をつけろ」
イザークは左手を背に回すと腰帯に挟んである愛用のナイフを鞘ごと引き抜き、彼女に向かって無造作に放り投げた。
彼女は「ありがとう」と嬉しそうに受け取ると、スカートのポケットに仕舞い込み、またぱたぱたと暖炉に走り、彼の為に暖かい酒入り紅茶を注いでくれた。
その後やっとテーブルにつき、すっかり冷めたくなった食事を美味しそうに食べ始める。
キラを見ていると、あれやこれやと悩んでいる自分が、妙に馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「お前、本当にアスハの王女なのか?」
「変?」
「当然だ。大体王女が冷めた不味い飯を食うか? 例え貴族の令嬢だとしても、仕留めた獣の毛皮を自分で剥げる姫君など、初めて聞くぞ」
「そうなんだ。でも、僕がいた修道院じゃ、当たり前の仕事だったから」
「貴様は一体どんな所にいたんだ?」
貴族の娘や上流階級の娘が、信仰と学問の箔を付ける為、もしくは花嫁修行で刺繍やレース編み、礼儀作法を学ぶために、幼い頃から修道院で育つことはよくある。けれど毛皮剥ぎは……普通はやらせる筈がない。
キラは楽しそうにくすくす笑った。
「僕を育ててくれた所は、山辺の貧乏な修道院だったんだ。食べるために猟師さん達に仕事を回してもらって。……他にも色々やったよ。川に行って漁を手伝ったり、魚を開いて干物にしたり、村人の服を繕ったり洗濯したり。それから修道院の畑で育てた野菜を村で物々交換したり、売り歩いたり……」
「ちょっと待て。お前、もしかして……貧乏だったのか!!」
「うん。君も知ってると思うけれど、僕本当だったら、忌み子で殺されていてもおかしくなかったんだ。それを宮廷医師だったハルマという人が、我が子をしきたりとはいえ殺さなくてはならない王妃様と、後から生まれてきただけで殺されていく僕を哀れんでくれて……、こっそり逃がしてくれたんだ。
でも、託した人があんまりよくない人だったみたいで、王妃さまから下賜されたお金は持ち逃げしてね、僕を山里の村役場に捨てていったらしくて。あんまり裕福でない村だったから誰も引き取り手がない。となると、乳飲み子でも引きとってくれる所って、いくらでも働き手が必要な所しかないでしょ?」
てへっと、キラは頭を掻いた。
だが、イザークは今度こそ貧血でぶったおれそうになった。
アスハ家の王女といっても、キラの身元引受人は名も無い貧乏修道院だったのだ!!
どうりでいつまで待っても身代金が届かない訳だ。工面する金などどこにも無いのだから!!
こいつは競り市場行き決定じゃないか!!
「なんでそんな女を『ロゴス』が誘拐してくるんだ……ちくしょう!! 何処の馬鹿だ!! お前攫った奴は!!」
このぼけぼけした女が全裸に剥かれ、見知らぬ男達に散々品定めされた挙句に売られていく姿なんて、想像しただけで怒りがふつふつと沸いてくる。
勘違いでも酷すぎる。こんな明らかな庶民。身代金目的で誘拐した奴の目を疑いたい!!
「で……、でもねイザーク、僕、昔は超貧乏だったけれど、今はホントにお金持ちになったの。だってほら、僕アスハの第二王女。僕ってば、確かにウズミ様に認められたんだ。だから」
「だったら何故ウズミは金を払わない? オーブはお前のことを必要と思ってないのか?」