僕は起きているよ
だからアウルは黙りこくったまま(人々は皆彼がわがままでどうしようもない奴だと思っているが、実はそうではないのだ。自分が納得すれば、聞き分けの良いところだってある)仕方なく部屋に戻らなければならなくなる。ぼんやりとしたままのステラの左手を、言われるままに引いて、彼女の部屋まで連れて行かなければならなくなる。
部屋を出ると、そこはひやりと冷たい廊下だった。ただ血が流れている互いの指先だけが温もりを抱えて、それ以外は凍り付くように冷たくなってしまっている。アウルはしかめ面をしたまま、ステラの手を引いて、小さな子どもを叱りとばすような口調で、その身体を引く。いや、引っ張るぐらいの強い力で。
「ほら、急げよステラ。全部お前のせいなんだから」
そのときステラは、操り師が交代したときの人形のように、今度はアウルの言うことばかり聞くようになる。とろんとした瞳、焦点の合わない視線で足下を見つめ、うん、と小さくつぶやく。
そんなとき、アウルはまず彼女を張り飛ばすよりも蹴り落とすよりも、しなくてはならないことがあるような気がして、ほんの少し、ペンの先で小さくつついたほどだけ戸惑ってしまうのだ。アウルの全てにうんと頷くステラ、頼りないその足もと、靴をはかない裸足の指先、でも少しだけ温かいその手のひら。その全てを、自分がどうにかしてしまわなければならないような気がして、うろたえてしまう。
だから、アウルは思うのだ。戸惑って、うろたえて、そして自分は彼女に何をしようとしているのだろう。 普段はあんなにいらいらと彼女を罵倒しているくせに、彼女を消し去ってしまいたいと思わないのは、一体何故だろうか。
「アウル?」
黙りこくって、立ち止まったままの彼を、ステラがぼんやりとした顔で見上げてくる。
そのとき、いつか誰かが言っていた、愛と憎しみとは背中合わせだという言葉が、突然虫図が走るほどの生々しさを持って彼の背中に忍び寄ってきた。たとえば殺してしまいたいほど憎むのと、その身を捧げたいほどに愛するのとは同義だという。アウルはそんな馬鹿なと首を振りながら、もう一度彼女の手を引いて、冷たい廊下をゆっくりと歩き出した。
ステラがスティングとは異なるように、アウルが2人に抱く思いも、全くもって違うものだ。スティングに対しては、何か大きな壁のようなものを感じている。疎外感を感じているというのではなく、アウルにとってスティングとはえてしてそういうものだという意味だ。彼は大きい。何故か、その理由も知らない早い内から、スティングはいつだってアウルを守ってくれようとする。
しかし、ステラはそうでない。ステラはアウルを守ろうとはしない。むしろアウルの足を引っ張り、ぐずぐずと立ち止まったままでいる存在だ。だからアウルは彼女を嫌う。彼女を、足手まといだと思って。
――今までは、そう思うことでステラに対するこの複雑な思いを捨て去ってしまっていた。
しかし、考えてもみようではないか。思う存分ステラを痛めつけた後、自分はどうするのだろうかと。殺すのでもなく、かといっていたぶることが目的でもないその行為は、一体何を持って完結するのか。
そのことの答えを得たとき、アウルは思わずステラの手を振り払ってしまいたくなるほど、彼女がうとましく、そして掛け替えのないものであるように思われた。
「アウル?」
ステラの声が、ぼんやりと遠くで聞こえる。
そうだ。
きっと彼女を痛めつけ、いたぶって、たとえば殴りつけ蹴り飛ばして、壁に打ち付けてやった後、アウルは彼女を抱き起こして、突然変異を起こした何かのように、すぐさま彼女をいたわり始めるのだろう。自分の行為によって流れたその血を拭い、傷のできた腕を抱き寄せて、いつまでもその温もりを味わうのに違いない。
攻撃的な彼の憎しみは、その後彼女を同じだけ愛することで完結する。アウルは自分だけが、彼女を痛めつけ、自分だけが、彼女を癒すためにそのことを切なく願い続けているのだ。
アウルはぞっとした。
自分はこのぐずで、のろまで、どうしようもない出来損ないの少女を、愛しているのかもしれない。彼が抱くことのできる全ての憎しみと同じだけの力を持って、彼女を愛することができるのかもしれない。
アウルは考え込むように一点を見つめ、ゆっくりと、彼と手をつなぐその少女を振り返った。
輝く金髪。幼い瞳。それらが全て憎らしいような気がする。憎らしいようでいて、どうしようもないほど愛しいような気がする。
アウルはそんな馬鹿な、ともう一度小さくつぶやいて、そっと彼女の手を振り払った。
「アウル」
「黙れよ」
言いかけたその言葉を遮って、乱暴に答える。腹立たしくて、いら立って、もうどうにでもなりそうな感じがした。僕はこんな奴が好きなわけじゃない。いや、僕はこんな奴を好きになってしまったんだ。頭の中で、交錯する二つの影と光が、複雑に入り交じる。
「黙れよ、ステラ。うぬぼれんな」
たとえばステラを殺すのは自分であればいいとは思う。彼女を殺すことが自分の本望でないにしても、彼女をどうにかできるのは、この世でたった一人だけであれば良いと思う。スティングは例外だ。彼はアウルにとっても希有な存在だ。彼にはそれが許される、でも、それ以外の者たちが皆、ステラに何かするのは許せないような気がした。それだけで、何か大きなことを成し遂げられるような気さえした。
いじめっ子の心理ってやつか。
自らを嘲笑うかのような皮肉の笑みを浮かべると、アウルがようやく笑ったことに安心したのか、相変わらず欠片も愛嬌のない無表情で、ステラがぽつりとつぶやいた。
「眠れない?」
「何が」
「アウル、眠れない。だから怒ってる」
違うよ、と返して、この何事に関しても無関心な少女が、珍しくアウルの身を案じたことに彼は驚いた。驚いたような気がした。実際アウルはどんなことに対しても反応が薄いので、実際驚くほどの感情も沸き上がらなかったのかもしれないが。
彼は、虚ろな雰囲気を失った彼女の瞳を見下ろして、お前もじゃん、と言い返した。
「目が眠くなくなってる。部屋に戻る途中で目が覚めたか?」
ステラはうん、と頷いて、目が覚めた、ともう一度頷いた。
「スティングはもう部屋には呼んじゃくれないぜ。一人で寝れんのかよ?」
珍しく饒舌になった彼女も、そう聞かれると弱いのか、うん、と不安の色を見せながら言葉を切った。期待するのではなく、アウルを見上げる。彼女の何も語らない表情が何を言おうとしているのか察するよりも早く、アウルは自分の中の攻撃的な感情が全て消え失せて、突然戯れのように優しい気持ちが降って沸くのを感じた。
「僕はお前と寝てやんないよ」
わざと意地悪げな響きをにじませて、アウルは笑いながらステラにそう言い下す。僕は寝てやらない、そう何度も繰り返して、なるべくステラの瞳に絶望の色が浮かぶよう。
「けど、僕は起きているよ」
一瞬何のことかわからずに、首を傾げるステラの頬に指先を寄せて、彼女が喜ぶように。
「お前がきっと眠るまで、僕が起きていてやる」