この感情は災厄でしかない
人間には人ならざる者に対して無条件に影響を与えてしまう輩がいることを波江は知っている。そして彼女のような混血にも作用すると分かっていた。それは好意的であったり、敵対的であったり、と人によって様々だが帝人のそれは波江にとって最悪に等しい。弟のことだけを考えていたいのに、見ていたいのに、ズカズカと割り込んできてこっちを向けとばかりに両頬を挟まれて首の向きを固定されるような圧迫感。嫌悪に類するそれならばまだましも、どう嫌おうとしても最終的には弟へと向ける愛情に似た感情が湧いて出る。上手く呼吸が出来ず酸欠で頭痛がし、心臓が急速に脈打ち身体が火照る。苦しむ彼女へ追い討ちをかけるように、会社は『ネブラ』への吸収合併が決定する。泣きっ面に蜂とはこのことだろうか、と自虐的に笑って彼女は電話を切る。
上等だ、と車のアクセルを踏み込み、自嘲は開き直った笑顔へと変わる。
この苛烈な感情をその身を以って知れば良い、と。
未明だが構わずにボロアパートの戸を叩く。未だ眠っていなかったらしい少年は戸を開けることなく返事をし、しかし時間が時間であり、訪問者が何も言わずにいたことにも訝しくおもったのだろう。チェーンをかけてから戸を僅かに開く。隙間から波江を視認するや否やその戸を閉めようとするが、即座に挿まれた浪江の靴に阻まれ、それはかなわない。しかし奥へと引っ込んでしまえばチェーンに阻まれ、彼女も部屋へ侵入出来ない筈だった。しかし
「邪魔よ」
ジャキ、と音を立てて波江の爪が長く伸び、チェーンを切り刻む。あっさりと進入された部屋の主はその特徴的な目を大きく見開いた。視線は(元は磨かれた美しい)爪に釘づけである。その爪を首筋に沿わせ、少しでも騒げばその首が飛ぶ、とまずは脅しておく。
「取引の続きよ、竜ヶ峰帝人」
脅されているにも拘らず、彼の瞳は長く伸びた爪を見てキラキラと輝いている。何なのだろう、と波江が眉を寄せると彼は漸く口を開いた。
「あの……、土足は困ります。あと、お茶くらいしか出せるものがないんですけど、お茶請けは煎餅で良いですか?」
この状況で言うことはそれなのか、何なのだろう、このわけの分からない人物は、と呆れ半分に爪を元の長さへと引っ込める。
「……こんな時間に茶菓子は要らないわ。お茶だけ貰おうかしら」
呆れただけだ、流されたわけではない、断じて。
「取引の続き、と言いましたが具体的には?」
茶、と言われ、まさか麦茶が出てくるのか、とも思ったがそんなことはなく、インスタントの粉末でもなく急須で煎茶を淹れてきて、粗茶ですが、と言われると、まだ日も昇らない内に急襲紛いのことをした彼女への嫌がらせかと思えたが、それはおいておく。
「真実、とか言ったわね。あとは身の安全の確保だったかしら? 貴方にとって残念なことに、自首するわけにもいかないのだけれど」
「そうされても無駄、ということが先程分かりましたので、それはもう良いです。それよりチェーンは弁償して下さい」
切り裂かれたチェーンを見て帝人は、ほう、と溜息を吐く。呆れているのか恍惚としているのか、よく分からないそれだった。
「こういう存在の説明として手っ取り早いと思ったからそうしたのだけれど。……そうね、弁償はするわ」
「貴女は、セルティさん――首無しライダーと似たようなものなんですか?」
「先祖にああいうのが複数混じってるだけよ、首がもげれば死ぬわ。…………多分」
多分なのかという呟きが聞こえたので睨みつけて黙らせておいて、冷める前に茶を口に含む。そういえば逃げた後から何も飲んでいなかった。じんわりと広がっていく温みが心地良く乾いた咽喉を潤していく。思わず、ホ、と息を吐いた。ついでにもう一杯要求する。
「取引の方に話を戻しますけど、僕が貴女と対等に交換出来るものなんてないと思いますよ?」
追加の茶を淹れながら帝人は問うて来る。何を馬鹿なことを、と波江は首を傾げた。
「そうかしら? 貴方、誠二と同級生でしょう。誠二のことを訊くのにこれ以上都合の良い人材はないわ」
「……本当に弟さんのことを愛してるんですね」
げんなりとした様子の帝人に彼女は当然よ、と即答する。その弟への愛を内側から阻害している張本人に訊く、というのも滑稽な話ではあったが。
「要するに弟さんの行動を貴女に報告する限り、僕の身の安全は確保される、ということでしょうか」
「話が早くて助かるわ。あと真実のことだけど……」
「? 矢霧君が張間さんを殺しかけたこと以外に何かあるんですか?」
「真実の原因、といったところかしらね」
二杯目の茶を飲み干した波江は荷物からそれを取り出し、卓袱台の上、帝人の前へと置いた。その瞳が先程、彼女の爪がチェーンを切り裂いた時と同じように、否、それ以上にキラキラと輝く。その玩具を与えられた子供のような瞳を見て、ドラマではなく漫画の見すぎだったのか、と結論づけた波江は、そこから視線を外さないでいる帝人に言った。
「弟に――矢霧誠二に渡らない限りにおいて好きになさい。
取引の継続と交換よ」
作品名:この感情は災厄でしかない 作家名:NiLi