シープスリープ・カウントシープ
【シープスリープ・カウントシープ・ロマーノ編】
ジャケットもそのままにソファーになだれ込んで何時もの赤いクッションを抱いた。頬を擦り付け視界を狭めさせる。時計は午前二時を指して久しい。もちろん外は暗闇、月のない夜のこと。クッションをぎゅう、と抱きしめるけれども、抱きしめ返してくれる腕はなかった。「そんなとこで寝たらあかんよ、スーツが皺になってしまう」、そう小言を言うひとも居ないひとりきりの夜。急に悲しくなった。声や姿の記憶に飲み込まれてしまう。うつ伏せて、呼吸器官が圧迫されて苦しくなるから、それがせつなさに似ているから、苦しくて喉がつかえるではないか。
昼間、会議の休憩中にロビーで見たドラマの主人公は、あんなにも親しげにハグをして、キスをして、優しさに満ちていたというのに。隣で其れを共に観賞していたフェリシアーノがピッツァを一切れかじりながら「いいなぁ」と呟いていたのを思い出す。「なにがいいなぁ、だ、ふっざけんな」自分はその横顔を見て、あぁ、そしてなにを思ったのだっけ。細やかな記憶は空白になっていくばかりだ。
眠ってしまいたかった。会議はあろうことか夜の帳が下りても尚続けられた。終電がないからとか言って切り上げたかったけれども、車ありますと一蹴されてささやかな抗議は空しく終わってしまった。国際的なことはともかくとして国内事情の会議だったから仕方がないと高をくくったらこの時間だ。上司の顔すらも忌々しく思える。疲れている、眠りたかった。一刻も早くシャワーを浴びて、いや、とりあえずこのソファーから立ち上がることをしなければならない。しかし、動かなかった。動けない、が正しい。苦しくて、どうしようもなかった。
フェリシアーノも、昼間の俳優たちも、上司も、ロヴィーノから既に消え去っていた。消えないイメージはどうしようもなく、スペイン。そこに浮遊していて、目には見えないけれどもとても近くに在る。ロヴィーは唇を噛み締めながら左手をそっと宙へ、伸ばした。
(あいつの、うで、の)
掴んだ手の形を作る。けれどもそこには何もなかった。重い瞼で狭くなった視界の先、どう眼球を動かしても見えなかった。力を込めれば握ってしまう。潰してしまう。体温も、感触も存在しない。
(あぁ、どうしていないんだ)
指が何度も動いて、彼の腕を捜した。けれど、なにも掴めなくて、さいご、力を込めた瞬間に薬指の爪が親指の腹に当たってしまった。
右腕がクッションを強く抱き、彼の身体のかたちをつくっても結果はみえていた。これくらい、これくらい、と、思っているのに自分の背に体温は回ってくれない。
(わかってる、けど)
夜の闇は、窓、ドアの、隙間から入り込み、じんわりと身体を冒してくる。染み渡り、重くなる。抱きしめて欲しくて仕方がなくなる。ずっと、数百年そうしてくれたみたいに。扉の前、ぐずれば両手を広げて招き入れてくれたではないか。首をぎゅう、と抱えるみたいに抱いてくれたじゃないか。背中をそっと叩きながら、眠りに導いてくれたじゃねぇか。あの、優しいカウントシープ。
(いない)
どうして離れているのだろう。取り留めのないことを考える。どうしようもない、どうしたい、どうしたくもない、ただ、
自分の腕は今、彼すらも掴めない。在るのは永遠に続きそうな空白だけだ。
(なんでいねぇんだ、よ)
じんわり、侵食を赦している。
最後、彼に腕を回したのは記憶では二月を過ぎた定例会議のホテルのエントランスロビー、その隅だった。丁度あの回は議長国がイタリアで、ロヴィーノがおのおのの手配をし、円滑に会議を終わらせ、みなで一泊したつぎの朝。もう行くのかと、子供みたいに彼のスーツの裾を引っ張ってみれば、彼は照れたように笑ってそのままぎゅう、と抱きしめてくれた。其れが最後だった。自分は彼の、肩甲骨を包むみたいに手を回して、そして離れた。離したのは、彼が先だった。
もうそれから数ヶ月だ。春が過ぎて、夏が来て、季節は秋に変わろうとしている。どちらも観光や農業で忙しい時期である為に、いままでないがしろにしていた。分かっても居た。毎年そのようなものだ。向日葵が咲き乱れれば堰を切ったように忙しさは舞い込んでくる。どちらとてヴァカンスシーズン。アンダルシアはフライパンのように灼熱になり、彼の首筋からする太陽の匂いは一層濃くなる、そんな季節。
どうしてだろう、あいたくなった。
首許の匂いは太陽の匂いで、それを吸い込んで自分は深く安心するだろう。ずっとつけているロザリオの細いチェーンを食んで祈りたい。背中に腕を回して、傷跡をひとつづつ撫でる。キスをして欲しい、と。思いくちびるを少しだけ開いた。やわらかな舌と熱がねっとりと侵入してくる。舐るみたいに絡めて、唾液は混ざり音が神経を過敏にさせた、あぁ、そうして。
イメージの中の彼を抱きしめ、舌をそっと差し出しても、そこにはなにも無かった。呼吸だけが記憶のとおり上がるだけで、苦しさで涙が滲んだ。ぼろぼろと際限なく流れ出し、止まらない。見る見るうちにクッションは濡れ、それが頬に当たり、その冷たさでまた、泣いた。漏らさないよう堪える嗚咽で喉が痛む。こんな自分、誰も知らない。
はやくここにきて。抱きしめて、キスをして。1735年のあの日みたいに、途方も無いほど愛して。ぜんぶ奪って、押し付けて、貪って。壊してもいいのだから、アントーニョ。(ましてや、自分なんて)熱が上がる。心臓がきゅう、と鳴いた。舌を絡める生暖かい温度、唇のやわらかい感触、鼻から抜ける吐息のような声、くちゅくちゅ耳につく水音、どれひとつをとっても。あ、あぁ。その大きく筋張った手のひらで、舐り、弄り、犯して欲しい。覆いかぶさり出来る彼の影を眺め、爪を立て、歯を立てる彼を受け入れ、首から肩にかけての斑点をなぞられる。斑点は楕円で歯形をしていて痣のように残っていく。その感触、感覚、体温。何度も何度も触れるやわらかい癖のある黒髪の感触、までも。
(なんで、こんな、に)
(居ないという空白と現実の静けさに、もう自分は耐えることが出来ない)
記憶は驚くほど鮮やかだった。シーツを握り締める自分の手が、苦しさで震えていた。クッションに頭を押し付けて忘れ去ろうとしてもべっとりと貼りついて離れてくれない。右手の小指が繋がりたくていまも少しだけ動いている。さがして。
鼻から息を、深く吸い込んで、吐き出した。心臓がとても痛むから下唇を噛み締めていて、口が開けられない。
(もう、だめ、だ)
ロヴィーノはこびりついたイメージを振り払うように深呼吸を何度かすると、寝転びうつ伏せたままジャケットのポケットから薄い携帯電話を取り出した。目頭をごしごしと擦る。腫れていて、痛い。殆ど何も考えられない頭でボタンを押した。
聞こえるのは呼び出しのサイレンみたいな音。彼の首に下がっているロザリオを思い浮かべる。ロヴィーノは祈るように目を閉じた。サイレンが途切れ、あの声が聞こえるのをロヴィーノは待っている。
作品名:シープスリープ・カウントシープ 作家名:トマリ