月夜の晩に
家康が動いたのは突然だった。
何の予備動作もなく馬から下りて三成の傍に寄ってきた――かと思えば、すぐさま三成の眼前で腰を折り、三成の腰に片腕を巻きつけて米俵でも担ぐかのように身体を持ち上げた。
「なっ…!?」
予期せぬ行動に言葉も出ない。三成は両眼を大きく見開いて、無意識のうちに家康の黄色い上着を鷲摑みにした。酷く不安定な体勢だ。月に照らされた畦道が正面にある。もしも家康が手を離せば顔から地面に激突してしまう。
身を強張らせた三成を気遣おうともせず、家康はすぐさま踵を返した。
「意外と重いな」
背後、というか腰の後ろから独り言のような呟きが聞こえる。
「鎧のせいだ!」
不躾な物言いに我に返った三成は、家康の上着をグイグイと引っ張りながら声を荒げた。
軽いと言われるよりかはマシな気もするが、重いと言われるのも癪に障る。いや、むしろ軽々と抱えられている時点で苛立つ。
「重いと言うなら下ろせ!だいたい、何故こんな真似を…」
「不満げにしていたからだ」
言葉での説明を求めるよりも早くに馬上へと下ろされた。馬の背に対して横向きに腰掛ける形となった三成の手を取り、家康は困った顔をして見上げてくる。
「送りたいと言い出したのはワシだ。それなのに馬に乗れないとは情けない。三成はそんなワシを見捨てずに、わざわざ練習に付き合ってくれた。だが不機嫌そうだ。ぼんやりしているようにも見えるし…疲れているのに無理をさせたのかと、それで不機嫌になっているのではないかと、思ってだな…その、なんだ、少しでも恩返しがしたいのだが…余計な、世話だったろうか…?」
今までの堂々とした態度はどこへ失せたのか。早口で捲くし立てたかと思えば、徐々に勢いが弱くなり、最後には消え入りそうな声音だ。
三成は叱られた子供のように眉を下げている家康の表情と、恐る恐るといったように握られている指先を見比べて呆気に取られた。
(こんな家康は見たことがない)
三成が今まで見てきた家康は常に人の上に立つ者としての器量を備えていた。豊臣の傘下に下ろうとも部下の為にならぬとなれば秀吉や半兵衛にだって楯突くし、2人に意見が通らずとも決して諦めない。肩肘を張って突っぱねるのでなく、他の武将を説き伏せて自らの意見に賛同させるという狡賢い手段を用いることだってある。天真爛漫に見えて一筋縄ではいかぬ相手だ。
それが、今はどうだろう。あたふたと言い訳をして三成の機嫌を伺っている。まるで――三成に嫌われることを恐れているかのように。
「嫌わない」
無意識のうちに、思い至った瞬間、スルリと口から零れ出でていた。
体躯に見合わぬ幼さを残した家康の顔が上がる。キョトンと両眼を丸くしており、さらに幼さを際立たせている。
(伝わっていない…そうか)
自分が口にした言葉を思い返して、主語が抜け落ちていたことに気づき、言い直すために息を吸う。
「私は、貴様を、嫌わない」
幼子へと言い含めるように一句ずつ区切った。家康はその言葉を噛みしめるように口をモゴモゴと動かして小さな声で繰り返す。
「三成は、ワシを、嫌わない…?」
「そうだ」
三成は満足げに頷いた。まるで寺子屋の先生になった気分だ、と思いながら、しきりに瞬きを繰り返している家康の瞼を見下ろしていたら、
「それは、好きということか!?」
喜色満面、とはこのことを言うのだろう。家康の表情が突然、ぱっと明るく輝いた。
「あ、ああ」
あまりのはしゃぎっぷりに少しばかり気圧されながらも三成は首を縦に振った。勢いに押されたのではなく、ちゃんと自分の意思だと明言できる。いつもの、人の上に立つ家康は気に食わないが、今の子供じみた家康には好感を持てる。
むしろ嫌う方が難しい。何がどう気に入ったのかは知らないが、無邪気に慕ってくる童を邪険に扱うほど三成の心根は荒んでいない。この家康は子供のよう、ではなく子供だ。わずかに頬を紅潮させて真っ黒な目を煌かせながら、何度も念押すように「本当だな!?」と問いかけてくる。弱々しく握られていた指先も4本、一纏めに力強く握られてブンブンと上下に振られていた。
「では送らせてくれるな!?」
「ああ」
「それは後ろに乗ってもいいということだな!?」
「当然だ」
「手綱を握らねば危ないから三成はワシの腕の中に収まることになるが、それでもいいのだな!?」
「…何か問題があるのか?」
「いや、ない!何一つない!万事快調だ!」
訝しげに問いかけた三成に対して、妙に自信たっぷりに断言した家康はすぐさま三成の隣に飛び乗った。
また馬が暴れるのではないかと自分の体勢も鑑みてぎょっとしたが、家康は馬に飛び乗ると同時に三成の身体を片腕で巻き取り、しっかりと抱きかかえていた。馬も馬で乱雑な扱いに慣れてしまったのか、微動だにしない。
ほっと一息ついたのもつかの間、
「わっ、わわっ、すまん!!」
何故だか自ら行動した家康が慌てふためいて三成の身体から腕を離した。
「っ、貴様…!」
急に支えを失って危うくひっくり返りかけた三成は反射的に家康の胸倉を掴み、キョドキョドと落ち着きなく彷徨っている家康の両眼を鋭く横目に睨み上げた。
家康は、といえば両手を挙げて、三成から距離を置こうとするように背を反らせている。