四日間の奇蹟
廊下の窓から覗ける空は、もう赤から藍色へのグラデーションに変わっており、さっきまで明るく眩しかった太陽は、黒いシルエットの街並みの向こうへ沈んでいた。
三人は、並んで歩き出す。
エレベータで一階におり、受付の前を通り過ぎて、正面の自動ドアを抜けた。
外の空気はひんやりと冷たくて、俺達の間を、強く吹き荒ぶ風が通り抜けていく。それは、秋の終わりを告げていた。
「すっかり寒なったなぁ」
俺はさっき通ってきた道を戻ろうと、病院の門扉を左に折れる。すぐ後ろから二人の足跡が聞こえた。
「りょーちゃん大丈夫?寒くない?俺のカーディガン着る?」
「大丈夫だって」
そんなやりとりを後ろで聞きながら、俺はぼんやりと空を見上げた。
そこにはもう星が出ていた。しかし雲が多いので、その数も数える程度だ。もともとこの街では、星はあまり見えない。
今日は、月は出ていないようだった。
「あ」
もうすぐ駅が見えるという所で、後ろでジローが声を上げた。
「どないしたん?」
俺が振り向いて聞くと、ジローは立ち止まって左の方を指さした。
「俺、読みたい漫画あったの思い出しちゃった!そこの本屋寄ってく。じゃあねバイバイ!」
そう言うやいなや、ジローは身を翻して電飾の看板のある店の方へ駆けだしていった。
ジローのその小さな背中が、店の光の中に吸い込まれていく。
「ジローのやつ……」
横で、ジローの後ろ姿を見送っていた跡部が呟いた。
「あいつも、もう知ってるんだろ。俺が宍戸じゃないってこと」
跡部は顔をこちらに戻して言った。
「……すまん。ジローに問いつめられて、本当の事しゃべってしもうた」
やっぱりな、そういうと跡部はふっと笑った。
「あいつの動物的カンには、俺も驚かされるからな」
気にするな、そういって跡部は歩き出した。
俺もその後に続く。
駅前の商店街は、もうすっかり夜の街になっていた。軒並み店の電灯がついていて、夜なのに道には俺達の影が長く伸びる。
「あと二日だな」
跡部は、まるで何でもないことのように、さらりと言った。
「二日たったら、俺の意識はきっとこの体から抜ける」
「跡部……」
隣で歩く跡部の横顔は、その向こうにある電灯の逆光になっていて、よく表情が見えなかった。
「なあ、忍足。俺は正直言って、あの病室で自分の姿を見たって言うのに、実感が湧かなかったんだ。自分が死にかけてるっていう実感がな」
跡部は前を見つめながら言う。
「忍足に、自分の状態を説明された時も、どこか他人事のように感じたんだ。今でも、これは夢なんじゃないかって思うぜ。俺はあの事故でずっと意識を失っていて、ってこれは実際今でもそうだけどな、でもそれで、宍戸の中にはいっちまう夢を見てるんじゃないか。その夢から覚めたら、俺は今まで通りあいつらとテニスができるんじゃないかって。そう思うぜ」
本当にそうならいいけどな、そう跡部は言葉を切った。
「恐くないんか?」
「恐くないって言えば、嘘になるがな。でも、現実感がないっていうのが正直な気持ちだ」
俺には、跡部が本心でそう言っているのかどうか、判断するすべはなかった。俺を心配させないために、そう言っているだけなのかもしれない。しかし、その表情は相変わらず見えなかったし、本来跡部も自分をコントロールするのが上手い。ポーカーフェイスもお手の物だ。頭のいい跡部は、簡単に相手に気持ちを悟らせることしなかった。
「まあ、じたばたしてもしょうがねぇ。二日たったらどうなるか、見届けてやるだけだ。そん時、俺が生きてるって保障はねぇがな」
跡部は、いつもするような不適な笑みを浮かべて言った。
そんなものだろうか。
やはり俺にはわからなかった。実際に体験してみないと、本当の気持ちは理解できないのだろう。
気がつくと、もう目の前には駅の改札があった。俺と跡部は、そろって券売機で切符を買うと、改札を抜けてホームに出た。
駅のホームは、帰路につくサラリーマンや学生で混んでいた。ざわざわと落ち着かない空気が漂っている。
「跡部、どっち側?」
「宍戸の家は、こっちだ」
跡部は背中を向けて、俺とは反対側のホームにたった。
「そうか。いくらなんでも、宍戸の姿で跡部の家に帰るわけいかんもんな」
「ああ」
そして跡部は、
「宍戸の家か。久しぶりだな」
と、小さな声で呟いた。
もはやその表情は、お互い背を向けていたので、伺うことが出来なかった。
俺は思う。
ジローは、跡部に己が抱えている想いを吐き出させるために、自分一人でその思いを抱え込ませないために、俺に託していったのではないだろうか。
たとえ跡部が気づいていても、表面上ジローは跡部に起こった事態について何も知らないということになっていた。自分がいたのでは、跡部はその事を口にしないだろうと、ジローなりに気を遣った結果が、俺と跡部を二人にさせることだったのではないか。
それなら、俺は未だジローの期待に応えていない事になる。跡部は、未だその胸に打ち明けられない思いを抱えているのではないか。
何か言わなければ。
俺は、跡部のホームに電車が滑り込む前に、ジローの思いを汲まなければならないと思った。
しかし、焦れば焦るほど言葉が出てこない。
一体、俺に何が言えるというのだろう。
その舞台から外れた位置で、火中の人に外から声を掛けたって、それは無責任な言葉にしかならない。その言葉はよけいに人を傷つけるだろう。それだけは絶対に避けたかった。
俺は結局最後まで跡部の顔を見ることなく、跡部が電車に乗った後でその後ろ姿を見送っただけだった。
自分が酷く情けなく思え、惨めな思いが体中に広がるのを、ホームに吹き抜ける冷たい夜風の中で感じた。