四日間の奇蹟
いつの間にか、西日が山陰に隠れ、空は藍色とオレンジのグラデーションになってた。この時期の夕陽は、割かし早く沈んでしまうので、それほど時間は経っていないはずだが、それでももう世界は夜に近づいていた。風もさっきより強くなっている気がする。
ふいに口笛が聞こえた。
聞き覚えのある曲だ。たしか、音楽の授業で習ったクラシックだったように思う。題名はもう忘れてしまったが、明るくてアップテンポで、勇ましい感じのする曲だ。その音色は、緩急がつけられていてもの凄く上手だったが、やはり口笛なので夕方の空気に物悲しく響いた。
「うまいもんやなぁ。なんて曲なん?」
「ショパンの英雄ポロネーズ。エチュード集のうちの1つだ。宍戸のやつ、クラシックなんて全然わかんねぇくせに、この曲だけは好きだって言ってな」
そう言うと、跡部はふっと目を細めて笑った。
その顔は、自分が死にかけている事実を忘れているかのような、穏やかな笑顔だった。
「なあ忍足」
「ん?」
「本音言うとな、俺だって死にたくない」
跡部は目の前を見つめながら言った。
「本当はもっと生きていたい。ずっとあいつを見守っていたい。でもそうしたら、あいつはどうなるんだ?あいつの意識、想い、夢、そういったもの全部、一体どこにいくんだ?俺が元に戻ったら、宍戸も元に戻るんだろうか?それとも、俺がいるから宍戸が元に戻れないんじゃないのか。それなら俺は死ぬしかないのか。それがわからねぇんだ」
そういって、跡部は空を見上げた。宍戸の姿をしたその男は、短い黒髪を風になぶられるままにして、もう何も言わなかった。
俺も習って空を見上げた。そうしたら神様が何とかしてくれるなんて、本気で思っていなかったが、俺は天に祈りたい気分だった。黒い雲がものすごいスピードで流れていく。
その空を見ながら思った。
ああジロー、やっぱりお前の言うとおりだ。
横の男は、跡部だった。
この男は、宍戸の事ばかり考えているから、きっと泣けないのだろう。
俺達はしばらくの間、風に吹かれながら、沈んでいく夕日を黙って見つめていた。黒い雲が西の空に大きく広がっている。夜は雨になりそうだ。そんな事を、ただ空を見ながらぼんやりと考えていた。
跡部の容態が急変したという連絡を岳人から受けたのは、激しく雨が降りしきる深夜三時の事だった。