うそと嘘
晴れた日には掃除をして洗濯、そしてケーキを焼いて昼下がりにはお茶を。すっかり慣れた生活を不思議に思うことなんて今では殆どない。例えば、よく晴れた夜の寝入り端や。草の上に落ちる雨の音で目覚めた朝などにたまに起こる、眠ってしまえば、立ち上がってしまえば消えてしまうくらいの感慨でしかなくなった。それはいいこと、なんだろう。多分。少なくともハンガリーははたきをかける自分が嫌いじゃない。はためくシーツを取り込む自分は決して嫌いではないのだから。シーツを止めていた洗濯バサミを、鼻歌交じりにエプロンの端に付け替えていると、下から舞い上がる突風が吹いた。
「わ!」
青い空に真っ白いシーツが上がっていく光景は綺麗だけれど、これは結構しゃれにならない!ハンガリーはそう判断すると、腕にかけていた洗濯物をひとまず籠につっこんでから慌てて塀を乗り越えた。猪突猛進は今でもあまり変わっていないことを彼女は気づいていない。ヒラリと降り立った道にはシーツは落ちていない。ム、と首を傾げてから辺りを見渡し、視線を上げてようやく目当てのものを見つけた。シーツは街路樹の上に豪快に広がっていた。
「あーあ……」
ため息をひとつつくだけで次の行動は決まった。ハンガリーはなかなかにしっかりとした幹を持つ木に触れ、へこんだ部分を見つけるとひょいと腕を伸ばす。そうしてそのままするすると登り始めた。見つかったら怒られるだろうな、と内心で肩を縮ませていたハンガリーだったが、そよ風くらいに自然に始まった木登りに、人気がない広場だったのも幸いして、見学客はまるでいない。徐々に明るくなっていく木漏れ日に嬉しくなってつい口を綻ばせた。そうして順調に上り詰め、シーツをたたんで腕に巻きつけるとにんまりと笑う。木登りは降りる方が難しい。慎重に枝を選んでブーツに包まれた足を落としていったハンガリーだったが、つい余計な声を耳が拾ってしまった。
「なっ、にやってんだお前!」
「うわぁ!」
ドスン!という音とともに襲ってきた衝撃は、石畳に落ちたにしてはまるで威力がなかった。恐る恐る目を開けたハンガリーが真っ先に見たものは、空に透ける銀髪の白い光だった。一声、聞いただけで分かる。腐れ縁のプロイセン。
「とっさに受身とか、お前ホントに女か……?」
背後からの声と体温を、睨みつけながら言ってやる。
「うるさいわね素直に褒めなさ……って、シーツ!」
ハンガリーはガバリと音を立てて下敷きにしていたプロイセンの胸から起き上がると、腕に巻きつけたシーツを確認する。どうやら地面にはつけていないようだ。ホッと安堵のため息を漏らすハンガリーに、離れたばかりの体温の持ち主はつまらなそうに呟いた。
「まだ坊ちゃんの下働きなのかよ」
お似合いだけどな、と笑う声が憎たらしい。ギロリと睨んでも、あまり効果はなかったようだ。
「今も昔も違うわよ!これは私が勝手にやってることなの!」
オーストリアのう屋敷に顔を出すたびに、どうにも家事に精を出してしまうのは今ではハンガリーの悪い癖のひとつに数えられている。当のオーストリアにも苦いため息をつかせているのだから多分、悪い方なのだろう。けれど、止められないのでハンガリーはそ知らぬ顔で洗濯を手伝ったりしている。昔は、ただ役に立てるのが嬉しかった。今でもその気持ちに変わりはないけれど、少しだけ違う。今は、ノスタルジックな感傷が上手に混じっている。それが分かるからオーストリアもハンガリーを止めずに、苦笑してから頭を撫でるのだろう。そのくすぐったい、妹のような感触が懐かしすぎて、ハンガリーは上手に捨てられないのだ。そんなことを、目の前の相手に説明できる気はしなかったので、唇をもどかしげに動かしたのはほんの数秒だった。気を取り直して、ハンガリーは立ち上がる。本格的に体温は離れた。てきぱきとスカートの土ぼこりを叩いているなか、ふて腐れたように地面に座り込んだままのプロイセンに、相変わらず面倒くさいなとため息をつく。
「ほら」
伸ばした手を、きょとんと見返されてちょっと可笑しくなる。そんなに珍しいかしら、と内心首を傾げながらハンガリーはなおも手を伸ばしたまま促した。
「ありがとね」
笑いかけると、どこかが痛んだようにきゅっとうつむかれる。強く打ったのかしらという微かな心配はするだけ無駄だった。
「……あんまり重いからびっくりしたぜ」
「その減らず口を即刻閉じなさい」
おっまえ、こえぇよとぶつくさ言いながら、渋々プロイセンはハンガリーの手を取る。よっと引っ張って立ち上がらせた。勢い余って二歩ほど手を繋いだまま足が進む。まるでダンスみたいだ、と思ってクスリと笑った。女性パートをいつの間にか違和感もなく踊るようになった。男の手が自分よりも大きいことを、認められるようになった。目の前の、繋いだままの硬い掌。もう離していいのに、離さなかった。お互いに。ハンガリーは自分とはすっかり異なる成長を遂げた体の輪郭をぼんやりと眺める。こんな距離にいるのはとても、久しぶりだ。ハンガリーは指に微かに力を込める。ピクリと、動いた体に笑いかけた。広くなった肩に。細いくせに硬い体に。その持ち主に。
「私、ホントはもっと早くあんたに言わなきゃならないことがあったんだけど」
石畳の上に風が吹く。よく晴れた午後だ。つむじ風が足元で落ちた葉を躍らせて消えた。
「……なんだよ?」
訝しげな顔を見ているうちに、何か楽しくなってきた。ハンガリーは笑いながら言う。
「あの頃、嘘をついてくれて、ありがとう」
ゆっくりと見開いていく目に笑いかける。その目に映っているのはたぶん、どこからどう見ても女の姿をしているだろう。ハンガリーは、その姿が嫌いではない。フリルもレースも今ではきっと好きだ。
でも、あの頃は必要なかった。
どこまでも駆け抜けた先にあるものは、それではないと信じていた。あの、叶いっこないバカみたいな願いは、曇りなかったからこそ今では、今でも抱きしめられる。
曇らせられたのはこの人だけ。
曇らせる機会があったのは、この人だけ。
バカだなぁ、と笑ってしまう。どちらに向けたのかはよく分からない。多分、両方だろう。彼が嘘をついていたのなら、自分だってついていたのだ。知らなかった嘘を。今では笑い話にもなる、嘘を。ハンガリーの笑顔に、プロイセンはどこか衝かれたような表情になる。
「……何のことだよ?」
「分からないならいいよ」
笑いながら離そうとした手に力がこもった。驚いて真正面から仰ぎ見たプロイセンの顔がよく分からない。影になっているから。自分よりも、背が高いから。
戸惑ったハンガリーと目を合わせると、ようやくプロイセンも笑う。離した手の指先が甲にそっと触れた。ワルツみたいだ、とぼんやりと思う。ぎこちない空気の下で落ち葉がくるくると踊っている。
「あんた、暇なら寄っていけば?」
どうにか沈黙を破りたくて放った言葉は、何か失敗したらしい。オーストリアの屋敷を指差して言うと、プロイセンは鼻にしわを寄せて吐き捨てた。
「やなこった」
「ちょっと、なによその言い方!」
憤るハンガリーに向けて、チラリと皮肉めいたまなざしを向ける。
「大体、おめーのうちじゃねぇだろ」