隠す涙
その手には、黄色い花を生けた花瓶があった。
「ええですよ。俺も、急いでないですし」
おばさんは、それでも申し訳なさそうにしている様子だったので、
俺は話を変えて、おばさんの手にある花の事を訪ねた。
「それ、飾るんですか。俺が置いときますよ」
俺は立ち上がって、おばさんから花瓶を受け取る。
「大きいのねぇ。身長、180cmくらいあるのかしら」
俺を見上げて、おばさんは驚いた声を出した。
実際、おばさんはかなり小さい。160cmもないだろう。
もしかしたら、岳人の家族はみんな小柄なのかもしれない。
「そんな大きくはないですよ」
愛想笑いを浮かべながら、机の上でええですか、と聞く。
「関西の方なのね。いいわねぇ、おばさん、関西弁って好きよ。
なんだかのんびりとしてて」
俺は花瓶を机に置きながら、そりゃおおきに、と笑いながら答えた。
その言い方が可笑しかったのか、おばさんはくすくすと笑いながら、
「これからも岳人を宜しくお願いしますね」
と会釈をして出ていった。
俺は一人になって、ふっと息をつきながら、
さっき岳人の母親が置いていった花を見た。
その花は、黄色い花弁と、太い緑の茎を持っていて、
細い花瓶の中にすっと1本。
何という名前の花かは分からなかったけれど、
上を向いて咲いている姿は、あの日の岳人を思い出させた。
岳人は泣かなかった。
悔しくなかった訳では当然ないだろう。
俺達の試合の後、鳳と宍戸の試合が始まってからも、
応援しながら時折「悔しい」を連呼していた。
震えていた、岳人の小さな手を思い出す。
そんなに我慢せんと、持ち前の素直さで泣いてまえばええのに。
しかし、その背中から大きな決意を見取り、俺はその言葉を飲み込んだ。
この時、岳人が何を決意していたのかまでは、分からなかったのだけれど。
扇風機の風で、花瓶の花が揺れた。
細長い黄色い花弁を沢山つけたその花は、どこか小さな向日葵を思わせた。
しかし、太い緑の茎は、ちょっとやそっとの風なら平気そうだったが、
不意に強い力が加わると、あっけなくポキンと折れてしまいそうで、
そんな所も相方を思わせた。
あの日、いつもなら素直に感情を吐き出してしまう岳人が、
胸にしまうことにしたその想い。
俺は、少し不安だったのだ。
それが、岳人の心をつぶしてしまうのではないかと。
「おっまたせー!あースッキリしたー」
岳人がタオルで髪を拭きながら部屋に戻ってきた。
涼しそうなノースリーブ姿が眩しくて、俺は目を逸らす。
「えらい早いやん。まだ15分くらいしかたってないで。カラスの行水やな」
「待たせちゃ悪いし、シャワーにした」
岳人は扇風機の前を陣取り、髪に風を送っている。
「ほお、そりゃ、岳人にしちゃめずらしい気の使いようやな」
「なんだよ、人がせっかく気を遣って早く出てきたっていうのに」
そう言ってふくれ面をするので、俺は笑いながら、悪い悪いと謝った。
白く細長い腕をしきりに動かしてタオルで髪を拭く岳人の後ろ姿を見て、
俺は岳人からタオルを取り上げた。
「バーバー忍足、いきまーす。せぇーーの……」
思いっきり岳人の濡れた頭をタオルでぐしゃぐしゃとかき回す。
「うわ!ちょっと、アハハハ!やめろって」
岳人の髪は細くて、量も少ない方だったので、
力一杯拭いてやると、水分が飛んですぐに乾いた。
「すげー、もう乾いてる」
髪をさわりながら、岳人は目を丸くしている。
「さて、髪も乾いたところで、勉強、はじめますか」
「うっ……そうだな」
岳人はいきなり現実に引き戻された様なうんざり顔をして、
棚から教科書やらノートやらを引っ張り出してきた。
カランッと、麦茶の氷が鳴った。
「……うー、やっぱわかんねー!」
シャープペンシルを投げ出し、岳人が根をあげた。
古典、科学、数学と、2時間かけてこなし、
今は物理に取りかかっている所だった。
「なんや、もう諦めんの」
「もうって、もう2時間も勉強やってんだぜ!?
俺にとっては奇跡だぜ、テストでもないのにこんな勉強やってるなんて」
心底うんざりしたという顔をして、薄目を開けて教科書を睨んでいる。
そして、少し休憩、そういうと、バタっと後ろに倒れた。
窓の外では、日が傾き、朝とは逆方向に影を作っていた。
もう4時近い。
俺は、頃合いだと思って、疑問に思っていた事を口にしてみる。
「今日、本当に勉強が目的だったん?なんや、俺が来ることを
前もっておばさんにゆうてたみたいやけど」
寝転がっていた岳人は、ぱちっと器用に片目を開けて、
「へへ、ばれた?」
と言った。
まあ、勉強も親に言われてたんだけどよ、そう言って岳人は体を起こす。
「ちょっと頼みたいことあって」
「なんや、やっぱしか。おかしいと思ったんだよなぁ、岳人が急に勉強なんて」
「勉強だって理由のうちだって!俺達、受験生だし。一応」
「まあそうやな。で、なんなん?その頼みって」
岳人がその事を今まで黙っていたということに、
少し違和感を感じて俺は訪ねた。
んー、まいっかぁ、もう十分やったし。
そう言って、岳人はさっさと勉強道具を片づけると、
テニスバックを担いで立ち上がった。
「ちょっと、どく行くん?勉強はもうええの?」
「いいってもう、十分。それより、侑士。
ちょっと俺と一緒に来てほしいとこあるんだけど」
そういって、またあのすがるような瞳をして俺をじっと見つめた。
今日の岳人は、どこかおかしい。
そう思いながら、俺はため息をついて腰をあげた。
長い階段を登ってついた場所は、ストリートテニス場だった。
いつだか氷帝のレギュラー陣と来たことがある。
青学の桃城と初めて会ったのも、この場所だった。
「なんや、やっぱし、テニスの練習相手かいな」
俺がそういうと、岳人はもう既に準備体操を始めていた。
ぴょんぴょんと、身軽な体で飛び跳ねている。
俺も、軽くストレッチをした。
この日のテニスコートには、誰もいなかった。
がらんと広い敷地内に、太陽の作るフェンスの影が伸びている。
気づくと、岳人が俺をじっと見ていた。
「なに?」
「んー、やっぱお前、着替えろ。俺も着替える」
俺は制服だった。確かに制服でテニスはやりにくいかもしれないが、
ちょっとした練習だったら出来ないこともない。
靴はちゃんとテニスシューズを履いていた。
「練習くらいなら、そんなに支障はないやろ」
そういうと、もう一度、着替えろ、と言われた。
そして目の前の相方はいきなりノースリーブを脱いで着替えだした。
バックから氷帝のユニフォームを取り出す。
こいつは……。
俺は、呆れたような思いで、呆然と岳人を見た。
岳人のこういうところは、1年半のつきあいで慣れていたが、
やはりこの無防備さに、いらだちを覚えることも少なくない。
岳人は着替え終わって、無言の瞳で促してくるので、
俺も仕方なくユニフォームに着替えた。
差し向かいでコートに立つ。