隠す涙
相手コートにたった岳人が、急に小さくなったように感じた。
昼よりかはいくぶん涼しくなった風が、俺の頬を掠めて通り過ぎていく。
「本気でやれよ」
練習試合で対戦するとき、岳人はいつもこう言う。
「はいはい」
俺は苦笑してボールを相手に投げてよこす。
「岳人からのサーブでええで」
岳人はボールを受け取って、しばらく意識を集中させるように
じっとボールを見つめていた。
「いくぜ!」
そう言ってあげた顔は、真剣そのもので、俺は驚いた。
実際、岳人は真剣だった。
ただの練習だと思っていた俺は、正直面食らった。
ボールを追いかける眼差し、その姿勢から、
ビリビリと岳人の本気が伝わってくる。
相方の、見慣れているバク転宙返りのハイボレーが
ビシッと音をたててコートに決まった。
ボールを取り、少しも間髪入れずにまたサーブを打つ。
どうしたんや?
とまどったが、相手のあまりの気迫に、
俺もつい力が入った。
緊迫したインパクト音が、俺の耳に響いてくる。
思えば、公式試合以外で、こうして本気にさせられた試合というのも
久しぶりだった。
跡部との試合以来だったか。
しかし、テニスの力で本気にさせられた跡部の時とは違って、
今日の岳人は、こっちが驚くほど真剣な眼をしていて、
その小さな体から発せられるオーラの様な物が俺の本気を引き出していたのだった。
俺は、岳人のその眼差しに応えるように、神経を集中させた。
どれくらい時間がたったのだろう。
長かったのだろうか、もしかしたら短かったのかもしれない。
時間の感覚がマヒして、俺はその長い一瞬を見送る。
ポトン……
俺の、最後のバックハンドドロップショットが決まった。
俺は不安になって、急いで岳人に目をやる。
岳人は、息をあげながらも、じっと自分のコートに落ちたボールを見つめていた。
長い長い無音の時間。
いつのまにか音までも吸い取られていて、俺は自分の呼吸も聞こえなかった。
深呼吸をして息を整えた岳人は、ゆっくりとこちらに顔を向け、そしてにっこりと笑って、
「やっぱり侑士は強いや」
と言った。
その声を聞いた瞬間、一気に周りの音が戻ってきた。
そして俺はその笑顔に、いつか感じた、あの大きな決意を読みとった。
「今日は、どないしたん……?なんか、いつもの岳人やないで」
そう言った俺に、岳人はまたあの笑顔で返し、静かに言った。
「侑士、ダブルスコンビ、解消しよう」
「今、なんて言った?」
「だから、ダブルスコンビ、解消しようって言ったんだってば」
まるで、なんでもないことのように、さらりと笑いながら言う岳人を見て、
俺は訳が分からない気持ちを抑えることが出来なかった。
「なんでや。何でそんなこと言うん?」
俺はネット越しに岳人の方に近づく。
近くで見た岳人の目が、とても淋しそうな、悲しそうな表情をしているのに
気づいて、今度は優しく訪ねた。
「俺、なんか悪いことしたん?それとも、もう俺とテニスしたくなくなった?」
声が掠れた。
岳人は俯いて、左右に首を振る。
「だまってるだけじゃ、わからんて」
俺は諭すように、岳人の細い肩に手を置いて、
腰をかがめ顔をのぞき込んだ。
「だって……」
「ん?」
「だって、俺のせいで負けたし……」
それは、あの青学戦を言っているのだと分かった。
「……岳人のせい?」
「俺、体力ないし、後先考えずに飛んで、侑士に迷惑かけて。
あの試合だって、俺のスタミナがもっと続いていれば……」
「岳人」
「だって俺……」
そういって岳人は顔を向けた。
「俺、侑士に俺のせいで負けて欲しくない!
侑士には、ずっと勝っていて欲しいよ!
俺のせいで侑士が負けた。俺のせいで……」
そして、侑士はこんなに強いんだから、大丈夫、シングルスでも行けるよ、と
呟くように言って笑った。
その笑顔は、まるで泣いているかようのだった。
その岳人の、泣き笑いのような笑顔を見た瞬間、
抱きしめたいという衝動に駆られた。
その細い肩を、思いっきり抱きしめてやりたい。
……しかし俺は、自分の手をぐっと握りしめ、
自分の心に蓋をした。
そして今度は手のひらをぽんと、岳人の頭にのせた。
「岳人……、そんな事考えとったんかいな」
岳人は俯いて視線をネットの白い編み目に向ける。
俺は、ふうっと息を吐いて、その小さな頭を見つめた。
「岳人、俺なあ、ダブルスって好きんなや。
もちろんシングルスもええけど、ダブルスは相手おらんとできひんからなぁ。
相手と一緒に協力して、おんなじ所目指して戦って。
一生懸命やって勝てばもちろん嬉しいし、負ければ悔しいけど、
そういうのも2人で分かち合えるダブルスが、俺は好きなんや。
キツイ練習も、2人なら乗り越えられるしなぁ」
「俺、負けたのが岳人のせいやなんて、これっぽっちも思ってないで。
負けたのは、俺のせいでもあるし。
俺も油断せんと、初めから全力で戦っとったら、
岳人にこないな思いさせんですんだかもしれんのになぁ。
俺の悪い癖や」
そして俺は、岳人の頭を自分の胸に引き寄せて、
「ダブルスなんやから、そういうのも、2人で2等分していこうや」
と言った。
岳人は黙ったまま、額を俺の胸に預けている。
冷たくなり始めた風が、二人を包んでいた。
そして、さっきの試合で流した汗が蒸発していく心地よさの中、
じんわりと、胸が熱くなるのを感じた。
それは、岳人の涙だった。
あの試合以来、涙を見せなかった相方の、
押し殺したような声が漏れる。
必死に我慢しようとしているのか。
それでも、後からあふれる涙を止める事ができないようだった。
俺のユニフォーム越しに、岳人の涙の温度を感じる。
「悪い……」
そう言って、顔を離そうとする岳人の頭を、もう一度優しく引き寄せた。
「泣きたいときには、泣いたらええ」
そう言って岳人の頭を撫でると、今度は堰を切ったように泣き始めた。
ネットを挟んで、岳人の背中を左手でさする。
夕日で、黄色く照らされたコートに、岳人の涙が溢れて、
あとからあとからぽたぽたと落ちた。
流れればいいと思った。
その悲嘆も、劣等感も、すべてその涙と嗚咽とともに、
流れ落ちてしまえばいい。
俺は岳人の背中を支える手に力を込める。
本当は、今すぐ岳人のその華奢な細い身体を抱きしめたかった。
しかし、それは出来ないことを、俺はもう分かっていた。
そう、俺達は親友だった。
俺と岳人の間にあるネット。
それはいわば、2人の境界線だ。
この線を踏み越えれば、今の関係は壊れてしまうだろう。
もう以前の様に、笑顔を交わして一緒にテニスをすることも出来なくなる。
それはもう、予感というよりは、確信めいた直感だった。
強く握ったら、その茎は折れてしまう。
それなら、俺は見守るだけでいい。
岳人を悲しませたくない……、それは、俺の一番の望みだった。
ええんや。
岳人が笑っていてくれるなら。
俺は他に何もいらんし、これからもあの花の様な笑顔を見られるなら。
これでええ。
そう、今はまだ……。